連載・寄稿

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2020.08.11 News 連載・寄稿

「『立民』『国民』の政権奪取には何が必要か」

日本人の価値観をめぐる連載、第38回のテーマは「『立民』『国民』の政権奪取には何が必要か」です。

7月に再スタートしたはずの野党二党の合流話が停滞しています。トップ会談の国民民主側からの呼びかけは不調に終わり、幹事長間協議を引き続き進めるとしています。焦点は合流後の党名とその決め方ですが、その根っこにあるのはやはり、政治家どうしの人間関係におけるこれまでの「経緯」であると思われます。そこで、本日は野党合流がどうやったらうまくいくのか。そもそも合流すべきなのか否かについて取り上げたいと思います。

立憲民主党と国民民主党、それぞれの個々の支持者からすれば、合流してほしい、してほしくない、という具体的な意見があるのは当然です。しかし、ここではあくまでも個人的な意見ではなく、野党が政権奪取を目指すための戦略としてどちらが有利であるかという話に絞って考えたいと思います。

立憲民主党と国民民主党の支持者は、大きく見ればかぶっています。国民民主党の支持者の方がより経済や安保においてもリアリズムよりであるという特徴はありますが、立憲民主党も中道保守層の支持者をとっています。立憲民主党にとって合流は支持基盤を広げつつ強化することになりますし、国民民主党の政治家も合流によって支持基盤を失うわけではありません。さらに言えば、昨年の参院選で国民民主党に投票した人の多くは政治家個人に投票するパーソナル・ボートであり、ときには立憲民主党と混同している例も見かけられました。国民民主党が仮に党勢を急拡大する可能性を秘めた政党であるならば、安保左派を多く含む立憲民主党との合流はマイナスですが、いまやそうもいっていられないということだと思います。

すでに本連載で振り返ってきた通り、政権奪取して多数派を取りに行くためには、ある程度自民党のことも評価している有権者を取り込む必要があります。多数派形成の戦略を前提としたとき、一番わかりやすい考え方は、安倍政権の度重なるスキャンダルに対して、よりクリーンな政治のイメージを掲げ、有権者に刷新を選択してもらうことです。二つ目は、安倍政権がすでに掲げてきた経済成長のための構造改革や女性活躍支援に、より強くアクセルを踏み込むというもの。三つ目は、世襲反対や国会改革などの先進的なイメージを前面に出したやり方です。実際にはシングルイシューではなく、この三つをすべて組み合わせなければ、多数派の形成は難しいでしょう。

ところが、野党はこれまで「消えた年金問題」で成功したようなピンポイントでの攻め込みに軸足を置いてきたきらいがあります。立憲民主党は2017年の結党間もない衆院選において、護憲派やスキャンダルを厭う層からかなりの同情・共感票を得ることができました。しかし、希望の党は注目度のわりにさしたる議席数を確保できず、イメージ戦略だけでは日本の有権者はついてこないことを白日の下に晒しました。

多くの報道では、小池百合子氏の「排除いたします」発言が失速のカギとなったとされていますが、私は実際には小池氏のイメージ戦略だけでは大義がもたなかったことが最大の敗因だと思っています。日本人の変化を望む気持ちとぴったり合致するためには、やはり虎視眈々と政権を窺う政策集団としてのたわめられた力やエネルギー、そして時代がその人たちとともにあるという大義が必要だからです。東京都知事選の重みは、やはり政権選択選挙が持つ重みとは違いますし、個人を選ぶ選挙であるという点が大きな違いです。悪代官的な敵を倒し、新しい風をもたらす颯爽とした小池百合子氏のイメージだけでは、政権選択選挙に勝利することはできないのです。

2019年の参院選では、野党はシングルイシュー的に年金問題に焦点を当てようとしましたが、熱心な報道にもかかわらず有権者はさほど反応しませんでした。むしろ選挙活動が活況を呈したのは一部のれいわ支持者ですが、アップサイドダウン型の現状打破志向が訴求効果を持つのはごく一部の革新勢力にとどまることは選挙結果を見れば明らかです。

有権者は一体どのようにして、単なる政局と政権選択を左右する論点を選ぶのでしょうか。参考にできる例が三つあります。ひとつは、郵政選挙。二つ目は、2009年の民主党政権誕生、三つめは日本維新の会の大阪土着化です。この三つの事例は、国民に改革の負担を強いる部分と、夢と希望を与える部分との配分が優れていたということができます。よく、小泉政権では「痛みを伴う改革」が支持されたと考えられがちですが、これを単純に文字通り理解するのは誤りです。郵政解散の場合には「抵抗勢力」を跳ね返すためのあえての民意を問う解散総選挙、痛みを伴う改革という二つがあいまって有権者と小泉純一郎氏の一体性を高めました。勧善懲悪は分かりやすい。痛みは、国民自らが負う負担というよりも「庶民のまっとうな感覚」を政治に反映するためのごたごたや不都合を甘受するという意味合いに取られたのではないでしょうか。要は、変化を嫌う国民が変化を受け入れるには、それにより生み出されるよほどの価値が提示されない限り、難しい。その点、政治が既得権にメスを入れることによって成長するというストーリーは十分に希望を与えるものであり、日本人の改革に関する自画像にマッチしていました。

二つ目の民主党政権誕生では、政権交代というキーワード自体が希望や大義となった稀な例ですが、ここでも霞が関や外郭団体にメスを入れる勧善懲悪型の「庶民のまっとうな感覚」が重視されたことは確かです。予算を抜本的に組み替え、霞が関の埋蔵金を掘り出すというのも、行革によって効率化を進めるということも、成長を示唆する希望となりました。

三つ目の維新運動では、はじめに重視されたのは無駄の排除であり、大阪の地域ナショナリズムに支えられ、逆境からの成長を目指す改革志向でした。その後、霞が関の埋蔵金と同様、二重行政の廃止が大きな宝の山として認識されましたが、維新は何もコストカットだけを訴えてここまで来たわけではありません。2019年の大阪W首長選で投票を大きく左右したのは二重行政の廃止に加えて万博誘致だったからです。維新が国政で大きな足掛かりを作れないでいるのは、二重行政の廃止や大阪ナショナリズムに匹敵するような国政上の主張を創り出せていないからです。

つまり、仮に野党二党が合流して政権奪取を目指すならば、そこには有権者に明確に伝わる形での抜本的な改革の覚悟と、強い成長志向がなければならないということです。2009年の民主党には安保思想においても、社会思想においても、保守から革新まで多様な政治家が同居していました。結局のところ、日本の選挙で勝とうと思うのならば、自民党のようにイデオロギーの多様さは飲み込むしかありません。国民は、彼らが人間関係というちっぽけなものに足を取られてしまい、あまり意味のないスタイルの議論に終始するのか、それとも脱皮するのかを見ています。

 

文藝春秋digital【分断と対立の時代の政治入門】2020/8/11掲載

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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