連載・寄稿

2020.12.07 News 連載・寄稿

「安倍前政権が持っていたプロ・アマの“二重性”」

日本人の価値観をめぐる連載、第50回のテーマは「安倍前政権が持っていたプロ・アマの“二重性”」です。

前回は、維新の清々しい会見を入り口に、彼らのもつアマチュアリズムとプロフェッショナリズムの二重性について取り上げました。本日は、安倍前政権の特徴を振り返って、同じく二重性について考えたいと思います。

安倍さんは、いったんは下野した自民党を政権に復帰させ、7年8か月にわたる長期政権を築きました。ですから、アマチュアリズムというよりも統治のプロフェッショナリズムに寄った政権であると思う方も多いかもしれません。しかし、実は第二次以降の安倍政権はプロフェッショナリズムとアマチュアリズムを混合させた性質を持っていたと考えた方が、現実をより的確に捉えられるのではないかという気がしています。

小選挙区制が導入され、民主党政権が成立したのち、自民党はかつてとは異なり普通の保守政党化が進みます。ある意味で当然のことですが、政権交代を前提とした保守政党としてイデオロギー的色彩を強め、党が強くなり、総裁のリーダーシップが重視される政党になったわけです。下野の経験によるトラウマを抱えた自民党は、細田派、麻生派、二階派、そして高村正彦氏が副総裁としてしっかりと安倍政権を支える形で、かつてのような内部分裂を許さない政党へと生まれ変わります。そうすると、指導力が強化された党のトップは、自然と大衆向けのスタイルを採用するようになる。しかし、大幅に議席を減らした当時の民主党はもはや力強い敵ではありませんでした。

そんななかで、盤石な政権基盤を築いた安倍さんは、比較的安定した中位の支持率を維持します。安倍さんのパブリックとの距離は、明らかに菅さんよりも近いものですが、いわゆるポピュリスト政治家ではありません。コアファンへのサービスや失意の時代に支えてくれた人々への感謝とケアは欠かさない一方で、世論に対してはアンビバレントな感情を持っていたのではないでしょうか。敵と味方を厳しく峻別しつつ、味方に対してウェットに訴えかける、一方で世論の大半は敵でも味方でもないその他大勢であることが分かっていて、そこに対しては、親しみアプローチと超然主義の組み合わせで対応する。

安倍さんの国会答弁は、ある種の喧嘩っ早さによる華があったわけですが、それは人口比的には少ない敵味方の闘いを真正面からやろうとしたからです。「日教組!」などのヤジをはじめ、言わずもがなのことを言ってしまうこともあり、選挙演説では「こんな人たち」という発言が批判を呼びました。結果として、安倍さんの改憲論や安保論に一緒に熱くなれない人であったとしても、その他大勢の観客が野党との喧嘩を面白がってみていたことは間違いありません。そこにはプロの政治ではなく、アマチュアリズム的なショーの要素があったからです。

アマチュアリズムは、民意を直接問う手法と親和性が高い傾向にあります。安倍政権の最大の戦術的勝利は、毎回解散のタイミングを間違えなかったことでしょう。2017年の衆院選こそ危うかったものの、結果的には野党がバラバラになり、自民党の勝利に終わりました。安倍政権が長期化できた最大の理由は、日ごろは統治の継続に徹しながらも、常に人々の興味を惹き続け、適切なタイミングで選挙に打って出ることで支持を更新し、飽きさせなかったということでしょう。昭恵夫人もたびたび話題に上りましたが、その一般的なファーストレディー像からかけ離れたスタイルや行動も、結局は支持強化につながったのではないでしょうか。

その結果、安倍さんは自民党の政権という特徴を上回る個性を獲得しました。個人が政党よりも大きな存在になると、後継のことはあまり考えないものです。安倍さんのいささかあっけないほどのスパっとした辞め方は、党よりも個人の存在が大きくなった結果でしょう。安倍さんの中にあるアマチュアリズムとは、ずっと統治を担い続ける存在としての自民党のイメージを個人に引き寄せたことで生じたものでした。平たく言えば、党の栄枯盛衰よりも個人の勝ち負けの方が重要になるということです。

リーダーが自らのレガシーを含め、世間に「理解されること」を望むのは、言ってみれば当然ですが、それがあまりに突出してしまうと、次の政権が不安定になる。菅さんが総理としてどのようなスタイルを作り上げていくのかについてはまだ不確実なところが大きいのですが、長期政権を望むのならば、そのバランスがある程度必要になってくるのかもしれません。次回は世界に目を向けてもう少し広くアマチュアリズムについて考えてみることにしたいと思います。

 

文藝春秋digital【分断と対立の時代の政治入門】2020/12/7掲載