連載・寄稿

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2020.04.06 News 連載・寄稿

「日本の統治原理の『本音』と『建て前』」

日本人の価値観をめぐる連載、第22回のテーマは「日本の統治原理の『本音』と『建て前』」です。

前回は、民主的な諸制度が完備されていれば、自動的に選挙を通じて民主主義が機能するわけではなく、競争が必要であるというお話をしました。競争がなくなった瞬間にエリートによる寡頭支配へと変化してしまうことを考えれば、政権交代を意識した臨戦態勢や、議会での闘いを捨てるわけにはいかないということです。そして、競争には権力闘争の側面と、理念を語る「言葉」の双方が必要だと申し上げました。

理念や思想といった「言葉」は統治と密接に関わってきました。まさに人間が想像力をもった動物であるからこそ、「言葉」を通じて統治が行われ、政治的なエネルギーが作られ発散するのです。「言葉」はときに暴走する。だからと言って、人間はそれなしに生きていくことはできません。

民主化の結果として変わったのは、誰が、何のために、国を導くのかということに答えを出し続ける必要が生じたということです。そのため、私たちは政治による国民の動員と分断を常に抱え込まなければいけなくなりました。しかし、調査で示したように、日本人の価値観を見てみると分断は小さい。自民党一党優位の日本は政治のダイナミズムを欠き、他の先進諸国から見て奇異に映っている。政権交代なき状態に甘んじる日本人は、従順で惰性に流される国民であると考えられがちです。

米欧のメディアから、日本の民主主義を低く評価されたり、国民が従順な羊だと言われてムッとする向きもあるでしょう。でも、実際にそうなのかもしれません。弊社が行った「日本人価値観調査2019」が示す通り、日本人は極度にリベラルな進歩主義者の割合がごく少ない。多くの人の価値観が中道に寄りがちであるということは、社会を安定的に維持しようとする保守的な価値観を持つ人が多いということを意味します。

ここで保守主義というと、18世紀イギリスの思想家・政治家エドマンド・バークをはじめ、フランス革命に対抗して生まれた鍛え抜かれた思想を思い浮かべる人が多いと思います。バークは急進主義的な革命に反対し、自由を守るための政治的諸制度の効用を説きました。しかし、ここで言う日本人の中に広く存在している漠然とした保守主義というのは、リベラルで革命的な進歩主義に対する反動としての思想性を持つものではありません。むしろ、リベラルな進歩主義が出てくるよりはるか前から存在する、人間の実感に基づくバランス感覚と具体的利害から発するものです。

ここで持ち出した「保守主義」の語感はきわめて曖昧なものに聞こえるでしょう。私が従前のコラムで保守、やポピュリスト、リベラル、リバタリアンなどと米国の調査の定義を拝借して名付けたような、価値観分類の目的に沿った単純化された用語法とは異なります。

四象限の分類に応じた、社会的に保守志向で経済的にはリアリズム志向の「保守」というのは、アイデンティティ分類のために簡便に使うグループの名前にすぎません。この価値観調査を通じて自らの集団内の立ち位置を適切に知ることができる。その理解を助けるためのラベルでしかないのです。
単純化されたラベリングは便利です。自分は「リベラル」なのか!? とか、「ポピュリスト」なのか!? 自党に投票してくれている有権者の分布はこのようなものなのか!? などと驚いたりすること自体に、ある種ゲームのような面白さがつきまとい、それによって自分の「選択」を客観視することができます。もちろん、価値観テストを行えば行うほど回答者は政治的に意識が高くなるという効果があり、自覚していない場合よりも一定の傾向が強まってしまう可能性が高いと言えるでしょう。政党も、支持者を知れば知るほど戦術的な戦い方がうまくなります。価値観調査を行いつづけることには、ゲーム性を高めることで政党の競争を促進する効果があるのです。

しかし、もっと繊細な意味合いにおける保守主義は、そのようなラベリングとは異なり、日本人の回答が中心点に凝集している事実に宿っています。日本の曖昧な保守主義とは、憲法が作られ、政党競争が始まる以前から存在する、社会の「統治原理」です。いわゆる絆、イエ、自己責任、子孫繁栄、伝統、といったものの総体であり、例えば各人が個々の利害に基づいて動きながらムラに迷惑をかけないようにする、あんまりお上がひどいことをすれば反抗して言うことを聞かないでよい、などという習わしのようなものです。

もちろん、歴史学者からすれば、乱暴だと思う向きもあるでしょう。社会の習わしそのものが時代によって異なり、作られてきたものなのですから。いったん形成された社会の統治原理は変化しうるという視点は重要です。しかし、いま形成されているものを一括りにする若干の乱暴さをお許しいただいて、あえて言い切るならば、いまの日本社会には表の民主的な統治原理だけでなく、裏の統治原理があります。日本の統治原理の本音と建て前といってもよいでしょう。

表の統治原理のうち、立憲主義や代議制民主主義、三権分立などの制度的仕組みは問題こそ抱えていても、それなりに機能しています。しかし、政党間競争だけはうまく機能していない。だからこそ、政治空間が村社会的な裏の統治原理でばかり動くようになってしまっているのではないでしょうか。
日本に政党間競争が育っていないのは、やはりそれが人間関係と個別利益に基づいた徒党であり、思想に基づいた「言葉」で人々を動かす存在ではないからでしょう。仮に中選挙区制を復活させて自民党の派閥の息を吹き返させたとしても、かえって公共の利益のための思想を訴える政党が育たず、徒党を復活させるだけだろうと思うのです。

さて、ここまでの論点をまとめましょう。日本では憲法と同盟を除いて、価値観とイデオロギーに基づく国民の分断が不十分で、政党間競争が育っていない。与野党の切磋琢磨が不足する中で、トップダウンの政治主導改革が進み、小選挙区制度に基づく党の統制が厳しくなると、自民党内には真摯な権力闘争さえなくなってしまった。けれども、中選挙区制を復活させることは政党を育てるための解にはならない。権力闘争が理念に基づく「言葉」を用いるようになってはじめて政党間競争が育つ、ということです。

日本はイデオローグがあまり力を発揮しない社会です。リベラルな価値観を掲げて大胆な社会・経済改革を提唱したり、グローバル化に対応する構造改革を唱える人びと、あるいは強いイデオロギー性を帯びた社会保守がいまの日本政治で大きな役割を果たせないのはこうした理由からです。この国の、反米主義や憲法9条をめぐる争い以外の対立は、公共の利益のための議論を離れ、村社会的でウェットな社会常識や、個人的好悪感情と個別利益をめぐる争いに引きずり込まれがちだということです。

例えば、新型コロナウイルスの自粛をめぐる「不謹慎」批判、満員電車におけるマナーなどの方が、政策論議よりも盛り上がる。日本の多くのテレビ番組で、立場を明確にした議論よりも、多くの視聴者の共感を呼ぶようなアマチュア的コメントをコメンテーターが提供する建付けが多いのも、そうした理由からでしょう。ネット上のフェミニズムの是非をめぐる論争の一見した不毛さなども、こうした村社会における本音の部分が関わっているのではないかと思います。

そこで、次回は本音と建て前が食い違うなかで、一つのイシューに関する価値観がどのように変化したり、変わらなかったりするのか、について考えたいと思います。

文藝春秋digital【分断と対立の時代の政治入門】2020/4/6掲載

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