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2020.10.05 News お知らせ

「『自助、共助、公助』と日本人の価値観」

日本人の価値観をめぐる連載、第43回のテーマは「『自助、共助、公助』と日本人の価値観」です。

菅義偉氏は、自民党総裁選の際に「自助、共助、公助、そして絆」という公約を掲げました。合流新党の立憲民主党の代表に選出された枝野幸男氏は、すかさずその順番論を批判します。しかし、枝野氏自身も過去の国会内の発言において自助、共助、公助の順番を重視していたことが明らかになり、過去の思想と矛盾するのではないかと批判されることになりました。

自助、共助、公助をめぐる議論は、とても重要な論点を含んでいます。また、本連載が取り上げてきた価値観調査の観点からすれば、日本人は何を望んでいるのか、という社会の問題としても語るべきところが大きい。しかし、残念ながら、「自助、共助、公助」発言をめぐって沸き起こった言論には、日本人の価値観やその変遷を振り返るような丁寧な議論はあまり見当たりません。

以前にも取り上げた通り、自助努力は日本では強く支持される傾向にあります。日本人価値観調査でも、7割以上が国の制度に頼る前にまずは自助努力が大事だと答えています。とりわけ、年長世代がそのような価値観を持っており(70代以上に限ると8割を超えるが18-19歳では6割を切る)、党派性はほぼ存在しません。日本人全体としてみれば、まずは「自助努力」をすべきだが、そのあとに公助があるべきという価値観を持っているということになります。ちなみに、全くそう思わないと答える人は僅か3%、あまりそう思わないと答える人は13%。自民党は、日本人の圧倒的多数を占める価値観に沿って行動しているのです。

自助努力は、日本政府が導入したり押し付けたりした価値観ではありません。もともと存在していた価値観にお上による後発の公助が新たな価値観として加わり、「自助、共助、公助」という総裁選で示されたような価値観が出来上がりました。時代の変化としては、地域社会が無縁化しつつあるなかで共助が廃れてしまったことがむしろ問題です。政治家の関心の中心を占めているのもそこでしょう。自助も公助も共助とセットで初めて成り立つものだからです。

日本において自助努力の価値観が形成された過程を論じようとすれば、おそらく本一冊を必要とします。この言葉自体は、19世紀の終わりに教育者であった中村正直が英国思想を日本に紹介するにあたってself-helpを自助と訳したのが起源と言われています。『西国立志編』(1871年刊)と呼ばれるその本は爆発的なミリオンセラーとなり、自助という言葉も浸透しました。けれども、その爆発的な浸透の背景には、そもそも日本の思想に自助と呼ばずともその要素が含まれていたことがありました。

身分や才能によるのではなく、自らの意志に基づいて自立すること。西洋におけるself-helpとは、封建制度から脱する過程において個人が神と向き合う中で育った価値観です。個人と家や社会との相克を旧秩序とより断絶的ではない形で処理してきた日本にも、儒教的な価値観として自助努力の思想がありました。社会の骨格や秩序を大きく変えない範囲で進歩を目指す英国の啓蒙思想と、祖先から受け継いだ家の発展と継承という社会秩序を変えずに人びとを教育しようとする日本的な儒教思想は、本質においては響き合うものがあったのだろうと思います。この点はすでにいくつも研究が重ねられているところです。

ところが、実際に「自助努力」をめぐる政治論議が沸き起きると、皆がそうした細やかな経緯をうっちゃってしまう傾向にある。過去を見るときは先人の知恵に学ぶのに、現在を語るときはいまの自分の印象や先入観にばかり頼ってしまうのはなぜでしょうか。ひとつの理由は、おそらく政治的分断と実際の社会のありようとをしっかり分けて考えられないから。

政治的分断というのは、相手の顔を黒く塗ってその黒さを責めているうちに自然と実現してしまうものです。相手を誹謗し、「あいつは右派だ」と言い続ければ、たいていの場合その相手は戦っているうちに自分を攻撃している存在が憎くなり、本当に右派になってしまう。それは弱い個人だから。保守の知恵とは、本来そのような架空の争いから一歩ひいたところで、「国家」とはこうあるべきという考えを体現するものです。そして真のリベラルとは、自由を至上の価値としたうえで真善美を勝手に追い求め、その価値を説き、体現するもの。両者は本来、どこか似てくるはずなのです。それは、自分自身を超えたものに至上の価値を置いているからかもしれません。

憎しみに囚われることは弱者を救うことにはならない。そして民主主義や大衆を信じすぎるのもまたよくありません。権力側の主張や行為の不当さを責めるにあたって、相手が反民主主義的であるという仮定を置けば、その戦いに勝たない限り自爆することにしかならない。まずは世論の実態や社会の問題を知るべきだということです。そして、そこから何ができるかを探る。
総じて、いまの日本人は弱者への分配を強化することにさほど熱心ではありません。しかし、現状に比べて分配を減らすことを望んでいるというわけでもない。一見、弱者への分配については与党が消極的で野党が積極的なように思えますが、少なくとも有権者に関する限り、党派的な違いはほぼありません。もともと、人間というのは自分に分配が来ると思えば賛成し、自分とは異質な集団に分配されると思えば反対する生き物です。自助でやっているけれども立ち行かないと感じている人々、例えば非正規雇用で働くひとり親に対する支援は何が必要なのか。最低賃金はどのようなペースで上げていけば、企業の新陳代謝が緩やかに進みつつも失業を増やさない工夫ができるか。具体的な議論が必要なのはむしろこうしたところです。

世論には絶対的な正しさはない一方で、個々人の生き方としては重要な哲学を含んでいる場合があります。それを殺すことは、政治の役目ではない。その代わり、世論に十分な革新性がないときでも、政治は問題を提起し、導くことができるのです。

文藝春秋digital【分断と対立の時代の政治入門】2020/10/5掲載