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2020.12.14 News お知らせ

「グローバルに見た『アマチュア政治家』という存在」

日本人の価値観をめぐる連載、第51回のテーマは「グローバルに見た『アマチュア政治家』という存在」です。

 

前回は、日本政治におけるアマチュアリズムについて書きました。ではグローバルに見た時のアマチュアリズムの本質とは何でしょうか。また、どうして民主化や大衆化とともに拡大する傾向にあるのでしょうか。本日はそのあたりについて考えたいと思います。

アマチュア政治家という言葉が使われるのは、大体エスタブリッシュメントからかけ離れたポピュリストについて語るときが多いのですが、その典型例として挙げられるのがトランプ大統領です。コロナ禍においても、トランプ大統領が科学的知見に反論したり、官僚機構へのいら立ちを見せるなど、まっとうと見なされない行動をとると、「統治の素人」と名指される。それに対して、トランプ大統領は負けじとばかりに「エリート」の無能さや非常識さをこき下ろすわけです。これは、大衆のコモンセンスに訴える政治を展開している政治家に共通する特徴で、ブラジルのボルソナロ大統領やフィリピンのドゥテルテ大統領などもその例に当てはまるでしょう。とりわけ、トランプ大統領はもともと政治家ではなかったわけですから、アマチュア政治家と見なされやすい。

コロナ禍においてトランプとボルソナロ両大統領などに、ウイルスの脅威を気合で乗り越える(!)的な姿勢が目立ったのは、彼らがコモンセンス的なものを重んじる指導者だからです。この「コモンセンス」とは、エリートではなく、中産階級やあるいはそれよりもちょっと苦しい低所得層の人々の実感に沿って動くということを意味しています。ボルソナロ大統領が重視したのは低所得者に対する給付でした。ブラジルは分権的な国家ですから、ボルソナロ大統領が何を言おうと州ごとにロックダウンなどの強硬策がとられます。すると経済は大打撃を受ける。ブラジルの経済がこれまで比較的底支えされていたのは、この現金給付によるところが大きいのです。トランプ政権も失業保険の加算を含めた大型の経済対策を打ちました。

アマチュアリズムというよりももっと非科学的な、デマなどの雑音を取り除いてみると、トランプ政権が打ち出したメッセージは、働きたいという願い、人間らしく生きたいという欲望に訴えるものや、あるいは学力格差を広げないためにオンラインではなくリアルの学校を再開させる必要などでした。私は、大統領選が行われるまでには米国の中でウイルスへの恐怖よりもコモンセンス的な願いの方が説得力を増すだろうと思っていましたが、皮肉なことに、まさに大型の経済対策ゆえに経済的困窮が表面化するまでに間があったせいもあり、有権者の間ではウイルスへの恐怖の方が少々勝ったようです。大統領選討論会などを聞くと、トランプ氏はむしろウイルスと共存しなければいけないということを説いていましたが、バイデン氏は危機を強調し、政権の失策をなじることで米国がとりわけ感染症対策に失敗した国だというイメージを植え付けました。しかし、実際には南北アメリカではカナダを例外として主要国の人口100万人当たりの死者数はいずれも似たり寄ったりなのです。地域的にみて、特に米国だけが死者数が突出しているわけではありません。

話を元に戻しましょう。アマチュア政治家と名指されることの多いリーダーは、往々にしてエスタブリッシュメントの決定やアプローチに異を唱えますが、おそらくそれは近代的な合理主義に対し、人間の自然な感情として生まれる反抗や反発に軸足を置いているからです。

米国で政治ドラマフィーバーを巻き起こした『ザ・ホワイトハウス』(The West Wing)のドラマに、あるシーンがあります。

主役の民主党のバートレット大統領は、再選をかけた戦いで強敵である共和党のフロリダ州知事ロバート・リッチーと、ニューヨーク司教がホストするチャリティコンサートで邂逅する。ホワイトハウス報道官CJ・クレッグを警護する過程で、彼女との間に恋愛感情が芽生えつつあったシークレット・サービスのサイモン・ドノヴァンは、たまたま入った個人商店で強盗に遭遇する。持ち前の正義感と有能さで強盗を一人捉まえて安心したサイモンだったが、店の奥に共犯者がいることを見逃していた。彼は撃たれ、死んでしまう。

バートレット大統領は、野球観戦で到着が遅れたリッチー知事とのとげとげしい会話を脇にそらそうとして、その件を語る。サイモンはバートレット大統領の一行が白人優位主義者のテロに襲われたときにもその場にいて警護をしてくれたのだと。

リッチー知事は、それを聞き戸惑い悲しそうな顔になり、「犯罪は……本当に、私には分からん」(Crime, boy, I don’t know)と共感を示す。両者の会話はますます噛み合わなくなる。

バートレット大統領はリッチー知事と別れるときにこう言い放つ。「もしあんたが将来、私があんたを打ち負かした理由を考えてもわからなかったとしたら、『犯罪は……本当に、私には分からん』とあんたが言ったときに私の決意が固まったんだということを覚えておくんだな」。

この小話は、運命論者のような保守と、合理主義者の革新との対立を興味深く表しています。リッチー知事には何も悪気はないはずです。しかし、ノーベル経済賞学者のバートレットは、悩みつくさないリッチーに我慢がならない。ただ何となく運命任せで生きているようにしか思えないのです。バートレット大統領は、そこで「Zen-like-thing」(禅みたいなやつ)という言葉を使うのですが、そこには米国の合理主義者の「禅」に対する不信感が透けて面白い。

言ってみれば、これは文化の分断なのです。もちろん民主党の合理主義者も、共和党の保守派もありとあらゆる政策をぎちぎちと練り上げる労力は惜しまないでしょう。政策目標もそれほど違うわけではないかもしれない。ただ、最後の精神性のところで両者は歩み寄れない。リッチーの態度に窺える「禅みたいなやつ」にバートレットのような人間中心主義的な合理主義者は耐えられないのです。

合理主義者にとっては、物事を解決したいということ、合理主義をとること、そのものがパッションの対象となっていることがあります。しかし、一方では物事なんてたやすく解決できるもんじゃないとか、人間は昔からこうやって犯罪とともに生きているんだと考えるリッチーのような人もいる。そりが合わない、というのは大抵理念の違いというよりも生き方の違いに根差しているのです。次回は、トランプのアマチュアリズムはいったいどんなものだったのかをもう少し掘り下げたいと思います。

 

文藝春秋digital【分断と対立の時代の政治入門】2020/12/14掲載