連載・寄稿
2023.09.01 News 連載・寄稿
孤独な人々をどのように結び、生と死に向き合うか―多死社会を支える保健
1.言語を用いた思考の可能性と限界
20 世紀は戦争や疫病で多くの人が亡くなった時代であった。とりわけ、欧州において第一次世界大戦のもたらした破壊は深い傷あとを残し、さまざまな分野に影響を与えた。作家ヴァージニア・ウルフが『ダロウェイ夫人』(原著は 1925 年出版)で描き出した帰還兵セプティマスの自殺は、時代の空気を象徴するものでもあった。ただ、セプティマスが抱えていた悩みは、現代人の悩みにつながる多くのテーマを内包している。社会に適合していないという思い。体験を共有できず、偽りの自己を演じさせられることによる疎外感。個人を抑圧する体制や社会の慣習への忍従と、社会的役割や周囲との関係性をめぐる重荷。セプティマスは帰還兵であるが、同様に死を想うクラリッサは戦争に行ったこともない貴婦人なのだから、ここでの「戦争」という事象は人間の持つ悩みが表出するきっかけにすぎないともいえる。
ウルフは人間や社会に対する観察眼に非常に優れた人であった。大戦という特殊状況によって当時書かれたものの価値が限定されることはなく、コロナ禍やウクライナにおける戦争によって蝕まれたわれわれ現代人の感覚を考える上でも学びとなることが多い。なかでも刮目するのは、人が死に至る原因が決して単純ではなく複雑であることを示すとともに、生きることへの希望をも与えてくれている点である。
文学という手法が優れているのは、一般化に抗うからである。読者の多様な解釈を可能にするばかりでなく、個別具体的に記述されているもの以上のことを自ら言わない。物語はフィクションであっても、唯一無二性のある「真正なもの」である。個別の物語を語ることに労力をかけ、一般化の衝動に抗った文学というもののありようは、かえって普遍的な物事に光を照らしがちであるゆえに、良い作品は後世においても読み返され、長きにわたって人々に影響を与え続ける。
しかし、人間の思考はいつもそう働くようにはできていない。言語というものが持つ、意味づけをして想像を喚起する力、概念としてまとめる力、仮説を生み出す力、そして現実のそのほかの部分を捨象してしまう力ゆえに、人々はかえって言語や論理が持つ限界を見失ってしまう。時代性の影響を受けすぎてしまうこともその 1 つである。
時代の気分を色濃く反映して広範な影響を与えたが、のちに否定された学説にジーグムント・フロイトの「死の欲動」をめぐる論考がある。フロイトは、帰還兵の症状などを説明するものとして、無意識の自己破壊的・自己処罰的傾向へと人を駆動する「死の欲動」と言う概念を編み出したが、これは時代の雰囲気を抜きには考えられないものであった。
総力戦による壮絶な破壊、ナチスの行ったホロコーストなど忌まわしい記憶の数々は、人間は生まれながらにして悪を夢想する攻撃的存在なのではないかという従前からあった人々の考え方を強めることにつながった。フロイトが望んだ結果ではなかったろうが、まさに宗教が語ってきた原罪的な世界観に寄り添う結果となった。
しかし、今ではそのような「死の欲動」の存在は多くの研究者によって否定されている。人間は攻撃的になりうる動物であるが、それは生存をめぐる闘争のために選び取る武器として備わっているものであり、逃れがたい欲望としての欲動ではないと。むしろ、帰還兵の自殺を含む暴力に関しては、その人がおかれた環境や経験に注目すべきだというのが通説である。
このように、人間は訴求力のある 1 つの仮説に引きずられてしまうことがままある。それが危険なのは、人間の思考や行動は環境と経験によって左右されるので、目立つストーリーが流布すれば人間の思考や行動もまた影響を受けるからである。そして、そのストーリーが政治家やマスコミ人のみならず科学者によって提供されることも少なくない。
2. 科学と言語
科学と社会とのコミュニケーションにおいてよく指摘されるのは、リテラシーの問題である。科学者は多くの物事を前提とした上で話しており、また一般社会の読解力を理解していない場合があるため、社会がどのような反応を示すのか、与えた情報がどのような伝わり方をしていくのかを予め考えて発信しなければならない、と。その場合、世界は言語を読解し記述する能力を持てる者と、持たざる者とに分けられる。しかし、筆者が指摘したいのはリテラシーの問題にとどまらない科学というものの限界である(ここでは自然科学と社会科学の双方を指している)。人間が科学するがゆえに誤る可能性である。
現代では科学と思想は分岐していると考えられているが、想像力という点において両者はつながっている。また、科学であっても言語という手段を用いて表現する以上、言葉の持つ力に良くも悪くも左右される。具体例として、コロナ禍の経験をあげよう。コロナ禍においてどれほどの誤ったストーリーが社会に受け入れられただろうか。
「中国のような権威主義体制はコロナ禍のような事態において自由な民主国家に優越する」というストーリー。「コロナ禍で経済損失を最小化するためには経済社会活動を劇的に削減することが望ましい」というストーリー。「日本で何も対策をしなければ 42 万人がコロナで死亡する」というストーリー。いずれも誤りを含むとともに、実際には存在しない前提を下敷きにしていたにもかかわらず、実用的な概念として流布してしまった。すべてをリテラシーの問題として片づけることはできないのは明らかだろう。
最初のストーリーは、特定のウイルスが特定の地域の人々やコミュニティにどのような影響を与えるか、ウイルスはそもそも封じ込められるのかどうか、できるとして、それまで人々は生きていられるのかどうかについて考慮しない意見にすぎないし、実験室ではないのだから異なる条件の国々を比べるのは難しいということを度外視している。中国のゼロコロナ政策はのちに破綻することになるが、日本や欧米諸国の感染対策の不備を語る際、常に中国は参照地点として語られてきた。それは、権威主義体制という目につきやすい違いが、人々の認識を縛ったからであろう。しかし、人間の特性は権威主義体制でも民主主義体制でもそこまで劇的には変化しないので。体制の違いに目をつけた議論そのものが間違っていた可能性もある。
2 番目のストーリーは、多くのエコノミストが初期に受け入れた概念であった。しかし、彼らは第二波が来るということを感染症の専門家のように当然視してはいなかった。そして、第二波がおそらくくるに違いないと予想していた感染症専門家は、経済損失を最小化するためにも、ほとんどの活動を自粛させるべきだと主張したのである。この論理は、のちには緊急事態宣言の解除時期をめぐる議論に援用され、経済学者によってこうした前提にもとづくGDP 損失規模の試算がつくられるなどして、第 6 波まで尾を引く影響を残すことになる。
そして、もはや有名になりすぎた感のある 3 番目のストーリーであるが、この主張の前提となったモデルは、患者は症状が出た後に高熱と咳に苦しみ、少なくとも自宅で療養することになるというほぼ確実に起きるであろう事象を前提に織り込んでいなかったという事実を指摘するだけで十分だろう。
つまり、言葉で記述するには世界はあまりに複雑であり、そして言葉で表現されたものの裏には必ずと言っていいほど確実にそぎ落とされた前提や他の条件があるということ、あるいは恣意的な課題設定が行われているということを、科学は「確からしさ」の煙幕を張って隠してしまいがちだということである。そうした観点から、科学がはたして人間を助けているのか、救えているのかという疑問を持つのは悪いことではない。もちろん同様のことは、言葉を操る思想や小説などの人文の分野についてだって言えることである。ただし、両者に共通する欠点は同じ特徴にもとづいている。科学と言葉の力は対極にあるのではなく、むしろ一体なのである。
3. 生存と孤独をめぐる問題
コロナ禍における人間のふるまいは、われわれ人間にとってもっとも重要なのは変わらず生存であり、孤独を避けることであるということを教えてくれた。ときとして、コロナのような感染症は「生存本能」と「孤独を避けたいという欲求」が相反してしまうためにしんどいのだというように、直接的に両者の対立関係が語られることもあった。しかし、ここで忘れてはならないのは、死は感染症によってもたらされるものに限らないということである。コロナ禍においてもっとも強く働いた言葉の力は、「コロナ死」であるといえる。コロナ禍においては、がんによる死も、老衰で死んでいく人も、ほかの肺炎で死んでいく人も、自殺した人も、虐待で亡くなった人も、殺人に遭った人も捨象されていったからである。
つまり、孤独を避けたいという人間の根源的欲求にきちんと気づいていた人々が用いた、「生存を目指す行動」と「孤独を避ける行動」が真っ向から相反するつらさ、という表現さえもが誤りを含んだものであったということである。そのことを筆者が初めて指摘したのは2020 年3 月であった。「コロナによる死も経済による死も等価」であると筆者が述べた言葉は、のちにさまざまな場で使われるようになる。これはコロナ死を最重要視する態度に言葉の力によって抗うものであった。しかし、言葉を用いる以上、そこに捨象が起きることは避けられない。
そこには、高齢者施設における孤独や、病院のリハビリ、緩和ケアを受けている人の看取りの問題や、死者との別れや葬儀をめぐる問題、子どもの発達阻害やうつ、貧富の格差による学力格差の増大、家庭内虐待問題、若者の孤独や就職活動の困難といった問題は含まれていない。女性の収入低下による社会的地位の低下や、家庭内労働による過労も含まれていなかった。
それは、「コロナに罹患したくない」という気持ちほど広範に受け入れられるであろう具体的な人々の利益が「主要な稼ぎ手の破綻を避ける」だったからである。本来ならば、社会全体をある空気が覆ってしまうコロナ禍のような事態にあっては、ありとあらゆるものをテーブルに載せた上で、複雑さを複雑なままに捉えて分析しなければならなかった。その複雑な声を科学は掬い上げられなかった。
仮説にもとづく指針だけでは、現場の間尺に合わなくなったときには工夫も編み出される。高齢者との面会交流の中止にしても、病院でのリハビリ中止にしても、あるいは葬儀における対面の禁止にしても、多くの制約要因がある中で現場は工夫を模索してきたといえよう。その 1 つがwifi の導入とタブレット端末の使用による交流である。しかし、タブレットでは埋められないものがあることをわれわれは知っている。コロナ死者は一般論としての注目に反して十分に人権が顧慮されず、遺族が別れを告げる権利さえもが軽視された。このことは、後世から振り返ったとき大きな反省点として語られるようになるだろう。
感染症が蔓延するとき、人間にとって感染症の存在はほぼ世界全体を占めるまでに大きくなるが、1 人の人の実際の死の重さはどんどん軽くなっていく。これはアルベール・カミュの小説『ペスト』に表現されている世界でもあるし、大きな戦争に際して起こる状況と同様である。概念としてのコロナ死と、1 人の人間の死は異なる重みづけをされるのである。まるでウクライナにおける「戦死」という概念と 1 人の戦死者では重みが違うように。メディアは、コロナで亡くなった若者の人生に焦点を当てた取材記事を出したり、ウクライナで犠牲となった看護兵の物語を書いたりしてそれに抗おうとしたが、物事の規模が一定程度大きくなれば、そのような多少の努力も全体的な傾向に呑み込まれてしまう。生き残ることが希望の社会においては、精神的な余裕がないために死者は十分に顧慮されない。コロナ禍もそうだった。患者は差別され、死者はきちんと弔われる権利を与えられなかった。ペストとは比べられないほど致死率が低い病気で、そして舞台は現代の先進国であったにもかかわらず、である。
コロナ禍における重要な教訓の 1 つは、孤独を避けることが、感染症を避けるために清潔さを好むのと同じくらい、生存に直結したわれわれ人間の欲望であることをもう一度思い出す点にあるといえるだろう。孤独とは人間にとってもっとも恐れるべき事態の1 つであり、人間を救いたければ、その根本的な不安に取り組まずにある特定のウイルスと戦い、あるいは医療行為だけで物事に対処しようとしてもだめだということである。
4. いまを生きるために
孤独対策は、近年注目されるようになった概念である。社会や個々人の取り組みとして考える上で、1 つ目には、各自が心身の健康を保つために他者とふれあい、孤独を避ける方法を編み出し、担保しておくということがある。2 つ目には、他者との交流から受ける傷つきを抑え、より自然体で自我を表せるような環境を生み出していくということがあるだろう。3 つ目には、誰をも待ち受けている死というものに対して、自分はこうやって弔われ、悼まれるだろうというある種の期待を持つことで心の準備をするということがあるだろう。
孤独を癒すには、必ずしも深い所での精神の交流を必要とするわけではない。人々は他愛のないおしゃべりによって癒される。おしゃべりは、身近な分野での情報交換によって自分を取り巻く世界がより安心なものになったような感じを与えてくれるし、多くの社会的立場が激変した定年後の男性を襲う孤独を癒す道でもある。決して軽視してはならないのが、こうした日常の身の回りのそれなりに忙しい作業と、それに付随する社交、人との他愛のないコミュニケーションの価値である。
逆に、信頼関係が築かれていない人が他愛のないおしゃべりを踏み越えて、他者の精神的領域に侵入して干渉したり、偽善や偽装を強いたりするのは危険なことである。そうした介入はむしろ孤独を深めさせ、ときに生きる希望を失わせる。
他人を攻撃して自死に追い込むような、ネットを含むいじめの存在は最近かなり問題視されるようになってきた。当然許しがたい行為であり、平等の概念の下に砂粒化した個人の集まりである SNS やネットの書き込みなどにいかにも起こりやすい事態である。安定した権力構造をもつ社会ではない砂粒の集合体において、ルールが乏しければ各自が互いに対する「狼」になりやすいということは歴史が示している。この問題を避けるにはルールを設けるか、つながりすぎないようにするしかない。ただ、それだけではないことに注意したい。子どもの自殺の最大の理由はいじめではなく、学業不振や進路をめぐる悩みなどである場合が多い。多くの大人にはとても理解できないような理由から発した精神状態によって、死を選ぶ子どももいるということである。
有名な映画『いまを生きる』はアメリカの厳しいプレップスクールが舞台だが、そこで自殺が起きる。有為な青年がなぜ死を選んだのかということを今一度思い出してみる必要がある。「いまを生きる」環境とは、人々が自らを偽らずに済む、重圧から自由になって感性を解放して生きられるための場を指している。単に多様性の尊重という原理原則を口で唱えるのではなく、死を想い「いまを生きる」ことを優先すればよい。そうできるような環境であれば、人は困難があってもなかなか折れないものである。
最後に、少子高齢化の時代において、孤独のうちに死ぬことは多くの人々にとっての強い恐怖となるだろう。死を迎えるときの在り方自体を考え直す必要があるし、その迎え方も自分で選択した結果である必要がある。超高齢化社会においては、高齢者が互いに助け合わなければならなくなるだろう。葬儀を組織するのは実の子どもに限らず、町内の付き合いが再び弔いを成り立たせる重要な顔ぶれとなっていくことが必要になるのではないか。他愛のないおしゃべりをするような血のつながらない者同士が互いを見送る。これは、 NPO の抱樸がすでに始めている取り組みである。支援対象はホームレスの人々だったが、その孤独を癒し、安心して残りの人生を歩めるようにするためには、みんなでのお弔いが重要な役割を果たしていることに気づいたのだという。それは孤独のうちに暮らす高齢者に通じる問題でもあるだろう。
突然やってくる死もある。理不尽な死もある。しかし、そのほかの多くの人にとって、生きるというのは、孤独を都度癒しながら、いつか死ぬという事実を受け入れられる準備をすることに他ならない。成熟社会において、いまもっとも求められていることの 1 つである。
(『保健の科学』第65巻第11号、2023年寄稿、2023年9月1日脱稿)