連載・寄稿
2019.12.10 News 連載・寄稿
2019年を振り返る
平成が幕を閉じ、令和になってはや7カ月。今思うことは、あらためて日本社会の奇妙なほどの安定とレジリエンスです。それは1867年に正式な「革命」をせずに旧制度を利用した形で近代国家を創り上げた、この国の積み重ねであろうし、GHQの統治下、敗戦後の焼け跡のなか旧制度を活かしながら民主化と復興をなしとげた、ほぼ偶然の賜物としての連続性によるのかもしれません。
そう思わされるほど、日本における皇室の存在は近代日本の連続性を支えてきました。不思議なもので、さんざんバッシングをされてきた雅子さまは堂々と皇后として振舞われ、国民はそれに感銘を受けています。皇太子であった今上陛下も、天皇としての振る舞いが以前から天皇であったように馴染んでおられる。きっと年が明ければ令和の時代であることは以前から当たり前だったことのように感じられることでしょう。
日本では時代の移行が密やかに進む
こう考えると、2019年という年は改元と天皇の代替わりに支えられ、日本が新たな時代へと継続性を保ちながら密やかに移行する、そんな年だったようにも思えます。日本社会の安定性は、内政の混乱期に突入した欧州や米国などの先進諸国に比べて際立っています。「変わらない日本」。少しずつしか変化が起きない日本には歯がゆさを感じるものの、それが大きな分断や動乱を回避してきたことは確かです。いまや政治の混乱に疲れ切った米国メディアは、日本に学びたいとさえ思っているかもしれません。
そのように連綿と歴史が続いてきたかのように思える日本ですが、必ずしも価値観が連続していたわけではありません。現在金科玉条のように言われているもの自体が、大して長い歴史を持つものではない。多くは近代以降に取り入れられたものにすぎません。例えば、天皇家の宗教儀式、中央集権のあり方、「家」における専業主婦というあり方。陛下、という尊称さえ、古からの雅やかな尊称とは異なって、近代の西洋的伝統に従って導入されたものでしかないのです。
表向きの、悠久の歴史という感覚の裏では、日本がおかれた内外の環境によって、様々な変化が進行しています。それは、少子高齢化であり、中国の台頭と米国からの圧力による日本の立ち位置の変化であり、女性の社会進出と外国人労働者の導入による多様化の進展です。日本の保守政治は、そのような変化に対して状況依存的に対応してきました。綿密な根回しを通じてどこまでの改革案を通せるか。どれほどの財政規律を目指すのか、米国の要求にいかほど応じるのか。近年政治問題化してきた案件は、実はこのような内外の環境変化に政治が一周回ずつ遅れながら対応してきたものにすぎなかったといえます。
目に見えるかたちで表出している「政局」やスキャンダル追及とは違う世界が永田町には存在しています。ほとんどの問題で、日本には先鋭な改革派も頑迷なイデオロギーも存在しない。利害調整の政治に終始する限り、与野党の政策目標にもアプローチにも大した違いがないからこそ、政局ばかりがその対立を代表してしまうのではないでしょうか。
例えば、安倍総理は民主党政権を「悪夢」と表現しましたが、民主党政権で目指された政策の多くは現在に受け継がれたものが多い。逆に、民主党政権もそれ以前に存在していた改革思想を受け継いだものにすぎませんでした。民主党政権下で行われた規制改革会議は、2007年発足以来行われてきたものと精神や政策課題はさほど変わっておらず、連続性があります。民主党政権は同じ課題に少し大胆な提案をしたり、少々異なるアプローチを取ったりして対応したにすぎず、向かう方向が異なるものであったとは思いません。
菅直人元総理が当時野党だった自民党の政調が打ち出した消費税10%の提案を独断で取りこみ、民主党政権の方針として打ち出して波紋を呼んだように、党内でのすり合わせができないままに野心的な政策を目指したことこそが、民主党政権の失敗の原因だったのだと思われます。
日本では、急進的な変化は好まれない。だからこそ、与党はほとんどの体力を改革の必要性と「落としどころ」の雰囲気醸成に割いています。野党は、その改革を上回る大胆な改革ではなく、変えることそのものへのリスクや必要性といった疑念提起、ファクトチェックに労力を割いています。よく、若者世代が与党と野党、どちらが保守でどちらが革新か分からないで混乱している、という指摘があります。思想的には保守と革新はしっかりとした内容があり、倒置するのはおかしい。しかし、実際の政治勢力が思想と平仄を合わせて行動できていないのだとすればどうでしょう。与野党が、ともに変化を厭う保守的な日本社会の気質に引きずられており、政権を取った側が大胆な提案をすると野党が押さえに回る、という構図を考えれば、若者が受ける印象が混乱するのも納得のできることです。
しかし、問題はこのように密やかに新時代へと移行しつつも、多くの場合人びとは社会が「変わった」とは思えず、絶望感を感じている層が少なくないということです。
末世の感覚
今の日本に対して、安倍政権に対して、そういう絶望感を抱いている人が一定数存在することは確かです。そこに漂っているのは「末世」としての認識でしょう。仏教の影響が強かった頃には、日本でも世が乱れ、滅びに向かう「末世」思想が社会を覆ってきた時代が幾度もありました。今も、「世も末だ」という表現として残っていますが、このような終末思想は、統治が安定した江戸時代に、仏教と分離して重用されるようになった儒教的な概念とは対極にあるように思います。
末世の感覚に表出されている感情とは、政策理念の対立というよりも、日本がどうしようもなく壊れてしまっているという感覚であり、現在の権力者に対する違和感や反対の表明です。こうした感情は、現状の秩序を否定するために、天変地異的なものや神仏に意思や理由を見出そうとする運動と親和的です。典型的には「ええじゃないか」騒動がそれにあたるでしょう。しかし、騒動に限らずとも、末世の感覚のような精神性を社会が帯びることがあります。
今の社会を「末世」と見るか否かは、受け手の側の主観に大きく左右されるものです。今から振り返ればよかった、あるいはそれほど悪くもなかったと思える時代でも、末世的感覚を覚えた人はいたからです。占領された日本が誇りを失ったことを憂えた人びと。高度経済成長にまい進する日本を憂えた言論人は多岐にわたります。逆に、経済が低迷した「失われた20年」を末世であると考えた人もいれば、3.11を末世的な意味合いで捉えた人も多かった。けれども、日本は変わらず存在しているし、国際的な存在感は減らしたものの、いまだに安定しています。つまり、客観的に言えば、それほど良くもないが、悪くもない、という状況であるにもかかわらず、強固な末世の感覚を持っている人がいる、ということです。
自らの主観として、「世も末だ」ということには、何の意味があるのでしょうか。この政策に反対だ、この政権に反対だ、ではなく、世の中の風潮に対して、精神性を帯びさせることには何の意味が持たされているのかということです。
ひとつには、自らの奉じる国民的物語が成り立たないことへの苛立ちでしょう。二つ目には、変化しない日本への苛立ちが込められている。三つ目には、精神性には痛みに対して癒しの作用があるからなのかもしれません。
日本に持ち込まれた党派性
末世観には、崩れゆくものへの郷愁、美化された過去を懐かしむ気持ち、自らやその属する集団の地盤沈下を国全体の物語であるとして受け取りたいという願望が込められています。今年話題になったニュースで言えば、桜を見る会の炎上は、エリートや政権に反対する陣営がそれぞれに抱いた末世観によるものだと私は受け取りました。「なぜあんな人たちが招待されているんだ」という感情は、エリートからすれば大衆的基準を持ち込んで業界秩序を破壊する政治の非エリート化であると映るし、反政権の立場からすれば党派性に基づく驕りに映る。
別に、こうした党派性をめぐる反発は日本に限った問題ではありません。米国ではオバマ大統領主催のパーティーをヒッピーの集まりと揶揄し、トランプ大統領の催しを田舎者の下賤な集まりと揶揄する声は存在するのです。しかし、米国が昔から二大政党の代表する社会的価値観をめぐって血みどろの争いを繰り広げてきたのに対して、日本は非常に融和的だった。日本はまだ党派性という事態に慣れていないのです。
そこに、日本に昔からあった「おごれる人も久しからず」という発想や因果応報といった概念が注ぎ込まれることで、その物語性が大衆を惹きつけ、話題を呼んだのだろうと思います。しかし、日本における儒教的な感覚に基づく統治の強さはそれでは揺るがない。国民感情に配慮し、「脇を締める」政権運営に戻ることが、そのような物語性に抗う手立てとなります。ゆえに、政権の支持率低下も数ポイントにとどまったのだろうとみています。
すると、結局日本人は何らかのショックが外部的に加えられない限り、「ええじゃないか」的大衆運動にはつながらない、ということになります。そして、ここは重要な点ですが、起こった場合に必ずしもハッピーエンドのシナリオになるとは限らない。
外部ショックはあるのか
日本に外部ショックは降りかかるのでしょうか。そして、降りかかるとすればどのようなものになるのでしょうか。実は、私は既に一部の外部ショックは日本に降りかかっているが、政権がそれをあからさまにしないことで表立った問題と化していないのだと考えています。
安倍政権は、外部ショックが生じていることをうまく隠してきました。米国依存を変えないままに、状況変化を受け入れて対応しています。中国が台頭し、権力移行が進む東アジアにおいて、むしろ親米政権としてのスタンスを強く打ち出すことに重点が置かれたからです。第二次以降の安倍政権になってから安全保障上の改革は進んでいますが、自立性を高めることと、米国やその同盟諸国との連携を深めていくことは、矛盾しないどころかむしろ同じ方向を向いた努力です。その考え方に従えば、日本は、米英豪などのアングロ・サクソンが主流派を占める英語圏諸国の仲間に入ることを目指すはずです。
しかし、今年二度にわたってリークされた米軍駐留経費4.5倍増の「非公式要求」は、そのような日本の考え方および親日的なジャパン・ハンズの描く日米同盟のあり方からは乖離しています。そこここで、別の修正シナリオを用意しておく必要が議論され始めています。
政権や次の自民党政権がプランBを適切に立てておき、今までの延長線上の微修正のように見せながら新しい政策を打ち出していくとすれば、今の日本の安定はそこそこ保たれることでしょう。そこにおいては、国民に明確な「物語」を提供する試みは実現しないことになります。彼らにとっては統治の安定の方が大事であるし、物語性を利用すれば、いっとき動員を拡大できても永遠に続く統治はできないからです。その結果、安定志向の見えにくい政策転換が目指されるでしょう。新聞の硬派な論説を読み解き、それを解釈できる者だけが感じられる時代の変化にとどまる可能性があります。
その副作用はというと、政策方針変更の説明を提供されず、理解もしない一部の熱狂的な現状否定層によってのみ、物語性が担われてしまうという効果です。末世の思想は、己が無力であることに理由を与えてくれるし、運動に没入することを正当化してくれる。両者は互いに永遠に交わることのない世界観を生きています。統治を優先した保守が、時代の変化に応じた「語り」を提供しなかったつけは、極度な悲観をのさばらせてしまう効果にあるのです。(初出『論座』、2019年12月3日脱稿)