連載・寄稿

2020.10.19 News 連載・寄稿

菅政権の難所

安倍さんと菅さんの違いは何か

菅義偉内閣総理大臣が選出され、新政権が発足してひと月。この間見えてきたものがある。それは、リーダーが何にこだわるか、どんな信条を持っているかということで明確に物事が変わる時代が来たということだ。公選制ではないにもかかわらず、首相の「大統領化」が進んでいるということもできる。

安倍さんが政治家として一貫してこだわったのは戦後レジームからの脱却であり、日本の国際社会における存在感を再び力強いものとすることだった。菅さんがこだわっているものとは、普通の人の「当たり前の感覚」を持ち込んで判断するということのようだ。両者の違いは、イデオロギーや大きな国家観の有無にひきつけて語られることが多いが、おそらくより根本的に見ると、人が「何によって立つか」という世界観の違いにある。

安倍さんはわかりやすく保守の典型に見える。人びとは伝統や秩序、国、郷土、家族などに規定されており、人間が直面する選択肢はその制約の中で努めて善く生きることでしかない。この考え方は、伝統的な保守の人間観だ。そのような世界観は今あるもの、歴史の長いものを残そうとするため、必然的に分権的で多元的な社会を形作る。構造を変えることを目指すのではなく、既存の構造のもとでの善行やチャレンジを取り上げてほめたたえ、メッセージを発信する。戦後レジームからの脱却を目指す過程で、安倍さんにはいくつかの分野で構造そのものを変えようとした形跡はあるものの、そのいずれも「国家」や「家」といった昔からあるものが揺らいでいる部分を補強しようとする方向に向かっており、革命的ではなかった。地方活性化や経済成長のためにトップダウンの手法を持ち込んだことは確かだが、それも既存の秩序を突き崩すようなものではなかった。政権のイデオロギー性は一部の物事に向けられており、そのほかは全体として穏健な改革派保守の政権だったということだ。

菅さんの哲学を見る限り、おそらく政治イデオロギーとしては保守の範疇ではあるものの、「何によって立つか」という基準に関しては人間、つまり自己に置かれている比重が大きいことが見て取れる。総裁選においても、雪深い秋田に育ち、自分の意志で東京に出て力試しをしてきたことが強調された。安倍さんも、石破さんも、岸田さんも名門の政治家一家に育った。今回は菅さんだけが国政レベルの政治家一家に育っておらず、珍しいということがクローズアップされたわけだけれども、それゆえに最も実力主義を信じていることも確かだろう。

突き詰めると、菅政権の特徴が行きつくところは、個人の能力、個人の権限、個人の権力を発揮することを重視することになる。これがリベラリズムとどのように違うのかについては、のちに取り上げることにして、まずは菅政権の最初の難所のように見受けられる日本学術会議の人事を例に、本政権の特徴を論じてみることにしよう。

6人の任命拒否の問題

急に世間にその名が知れ渡ることになった日本学術会議は、様々な分野の学者が集う内閣府傘下の組織である。歴史的には、戦中の学会が国家の軍事化に対して協力的であったことから、学会のリベラル化を図ることを目的にGHQ占領時代に設立された。いかなる意味でも民主的な基盤を有する組織ではないため、その呼称が適切とは思われないものの、「学者の国会」とも呼ばれている。

これまでの慣例では、会議の新規メンバーは推挙に基づいて内閣総理大臣が形式的に任命することになっていた。過去の国会答弁においても学問の自由の原則への配慮から、通常の行政機関とは異なり、その独立性に重視して運営されてきたことに特徴がある。しかし、近年になってその形式的承認に少なくとも事前調整の条件を持ち込もうとする内閣官房との間で駆け引きがあったようだ。

本件が政治性を帯びているのは、推薦された候補のうちの6人が任命の選からもれたこと。そして、その6名が特定秘密保護法や、安保法制などの安倍政権時代の一連の政策に反対していた過去があったからだ。任命されなかったのは、政権が推進する政策に反対していたからではないかという声が上がり、メディアもアカデミアも任命の政治化に危機感を抱いた。組織の目的から言って学問の業績に基づいて決められるべき人選が、思想・信条に基づいて決められたのではないかと憂慮する声が存在するということだ。

学界やメディア人の多くは、「学問の自由」へのあからさまな挑戦であるとして政府の決定に猛反発している。政府は個々の学術研究の内容に踏み込んで判断しているわけではないと表明しているため、逆にその判断に政治性があることは明らかだが、報道されている論点とはやや異なるところに力点をおいた説明が行われている。まず、法的には任命権は内閣総理大臣にあるため、一定の任命拒否の権限もあるという主張。過去の慣例でも、全ての推薦者を機械的に任命していたわけではなく、推薦と任命の間に一定の調整が行われるという経緯があったこと。今般は、その調整が行われなかったことから、結果として任命拒否のような形になったこと、などだ。もちろん、そうした慣例は安倍政権になってからのことだから、パブリックには示されない形で、2016年ごろを境にそれより前の慣例とは異なる運用がされるようになったということを意味している。

また、必ずしも政府から表明されたわけではないが、学術会議の目的や組織のあり方に疑問を投げかけるような文脈で、学術会議の予算や人員に関する情報が次々と語られている。その中には実態とは異なる誤った情報もあり、学術会議の改革を語るにしても、いささか本筋とずれた方向へと議論が拡散していることも否めない。しかし、いったん戦端が開かれた以上、日本学術会議に対する疑問の声はおそらく今後も消えないであろう。学術会議とは、そもそも10億円を超えるような予算を支出するに値する組織なのか。推薦者の選考基準は何に基づいているのか、そもそも研究者やそのコミュニティーを代表するような組織となっているのか、などの疑問である。

イデオロギーと改革

事の本質をめぐり、政府と、日本学術会議および本件に批判的なメディアや学界とのあいだで説明にはズレが生じている。つまり、この任命拒否は「イデオロギー」の問題であるのか、「改革」の問題であるのかという世界観の対立だ。より正確に記述するならば、そもそも改革の必要性のある組織において、イデオロギーを目的とする人事掌握のための慣例の変更が行われたことに強い反発が生じ、事態の収拾を図る目的で、イデオロギーとは無縁の改革の問題として再定義しようという機運が政府の中に広がったということだろう。

菅政権が、本件をイデオロギーではなく「改革」の問題として再定義し直そうと試みていることは、ダメージコントロールの観点からは正しい選択といえる。政府傘下の組織への任命を拒否する具体的な行為が、学問の自由を直接的に制限する行為であるかは確かに疑問の余地もある。具体的に名前の挙がっている学者が研究をし、発表をする自由はなんら害されていないからだ。ただし、学界を広く代表するべき組織への任命拒否の理由が、仮に特定の政府の政策に反対したことに基づいているとすれば、理念としての学問の自由への挑戦であると言わざるを得ない。

さらに、今回の任命を拒否された面々に宇野重視氏や加藤陽子氏など、世間に知られた優れた書き手が含まれていたことも、政府の具体的な判断の稚拙さを象徴している。学界のなかには、露骨に自らの政治思想を持ち込み、異論の排除などを目的とした学術から離れた運動を展開する人びとがいることは事実だ。しかし、私が隣接分野の研究者として知る限り、少なくともこの二人は政治性のある人物ではない。ゆえに、今回の判断に対する驚きが広がったのである。

菅政権は、主要政策において安倍政権をほぼ全面的に引き継ぎながら、安倍政権とは異なる要素を演出したい局面にある。その際、キーワードとなるのが「実務型」と「改革志向」であることだろう。いずれもが、安倍政権を性格づけるイデオロギー性と一線を画した特質といえる。菅総理は饒舌なタイプのリーダーではないが、その発言からは既得権益、前例踏襲、官僚主義への嫌悪が感じられ、その対抗軸として国民の「あたりまえの感覚」を重視しているように見える。

日本学術会議は改革を要する組織であるという印象が強まっているのも事実だ。そもそも、委員の任命基準に蓋然性や正統性はあるのか。今日の学問研究が多くの分野で軍民両用の技術に立脚している現実を無視して、55年体制的な一国平和主義に基づく幼稚な軍事研究観を持っているのは視野狭窄ではないか。日本の研究の力が各国と比較して著しく劣化している現実への反省はないのか。そもそも、若手を含む幅広い研究者コミュニティーを代表できているのか、権威主義に流れてはいないか、等々の点である。とりわけ、アカデミアを代表する存在でありながら、2000年に入ってもメンバーに選ばれている女性の比率が僅か1%にとどまっていたことは、当時の社会常識に照らしても異様であるというべきだろう。現在この点は改善されているが、アカデミアがリベラルな意味で先進的とはいえない一つの証左となる。だがその場合改革を提唱するにしても、日本学術会議単体というよりも学界全体の問題としてであろう。

日本学術会議は、社会に対して特に影響力の大きい組織ではない。したがって、政府が取り組むべき改革の素材として優先順位が高いとは思えない。だが、今般のことの成り行きとして改革で解くしか道がないのであれば、上記に上げたような問題を解決することには一定の合理性があるだろう。しかし、であるとしてもいきなり6名の任命を除外するやり方はいかにも拙速に過ぎたし、筋が違うという批判が飛んでくるのは当然だ。

いかに非民主的なものを体内に抱えるか

私が、一連の報道とそれに伴って戦わされた言論を通じて必要性を痛感したのは、社会の中の非民主的なものを大事にするかという視点である。現代の社会常識的には、いささか逆説的な視点に見えるだろう。民主主義を機能させて、豊かな社会を維持するためには、どうしても非民主的な要素が必要になるというジレンマがある。保守も、リベラルも、その事実ともう一度向き合うべきだと思う。

例えば、今回の件に関連して言えば、豊かな社会を維持するためには、学者が自由に研究し、優れた研究が評価される環境を維持する必要がある。重要なのは、学問を評価することは、総理大臣にはできないし、学者間の人気投票でもできないということ。学問の評価は、一定の知識と専門性と方法論を共有する学者同士の間でしか成立しない。学問の当否の判断の基盤が専門性にあるからだ。「あたりまえの感覚」、あるいは国民目線など、民主的価値観を体現する言葉はいろいろとあるが、それらをしても、学問を評価することはできない。人びとが慣れ親しんでいる価値観からすると気持ち悪いだろうが、同様の構造は、司法にも、ジャーナリズムにも、軍にも、芸術にも存在する。

民主主義を機能させるためには、こうした専門的な組織の発揮するプロフェッショナリズムが欠かせない。印象はさほど良くないかもしれないが、ある種のエリート主義であり、職業的倫理観と言い替えても良い。多数派の瞬間的な意思のみに基づいて社会を運営すると、社会は大きく方向性を誤ることは歴史が繰り返し証明している。ただし、民主的な社会において非民主的なものを抱える以上、民主主義へのリスペクトは失ってはいけない。ここは、あくまでバランスだと言っておこう。

その点、今回、任命を拒否された一部の学者からは、学術会議に手を出すことは「政権の崩壊」につながるという趣旨の発言があったが、この種の発言は、まったく建設的でない。それは、国民に対して彼らが世間知らずで、傲慢で、少々滑稽ですらある印象を与えるだけである。学術会議に関する詳細が明らかになるにつれて、そんなものやめてしまえ、というのが庶民感覚になりつつある。それは、社会の豊かさを維持する道ではない。川勝知事の意見表明も建設的ではなかった。無駄にへりくだる必要はないが、菅総理を見下し、独善的に見えたことは確かだ。

各国の政治制度は、国民の瞬間的な多数意見に支配させない仕組みを作るために苦心してきた。保守は、基本的には伝統を大切にすることでこれを実現しようとしてきた。大学や、裁判所や、軍などは、民主主義以前から歴史のある組織だが、その伝統を維持することで民主主義と対峙したり修正することができる。リベラルは、同じ目的のために、新たなルールや仕組みを導入することでその実現を図ってきた。保守は伝統や慣習を、リベラルは制度を重視する。しかしそれを何と呼ぶかは別として、民主主義を機能させるためには、非民主的な要素は必要だ。民主主義に最適解はない。試行錯誤のなかで成立するものである以上、ある時点のある制度が金科玉条のものとなることはあり得ないのである。

立憲主義において重視される人権とは、国家から国民の権利を守るものと解釈されがちだ。しかし、それは解の半分でしかない。もう半分は、人びとから人びとを守るということだ。民主主義を前提とする以上、国家からの保護に加えて多数派からの保護が担保されなければ、少数派の権利は絵に描いた餅となってしまう。

成熟した民主国家では、人間というものがいかに間違う存在であるかということが強く意識される。そして、それに対する保守なりの解とリベラルなりの解とが、相互への尊重を基礎として戦わされる。日本の政治状況のみならず、世界に目を広げても、そんな社会はもはや存在しないように見えるかもしれないが…。

リベラルが出すべきメッセージは何か

はじめに、菅総理は保守主義の範疇のなかで、個人が自らによって立つという思想を持っていると書いた。これはリベラルとどう違うのだろうか。仮にリベラルが政権をとったときに、菅政権とは違う解が出てくるのだろうか。もし、リベラルの取る解が「学界やエスタブリッシュメントを大事にする」というものであれば、それは単に友敵概念に支配された経路依存的結論にすぎない。菅政権がこうしたから、自分たちは逆を行く、ということだからだ。現に米国では二大政党が分極化し、ありとあらゆる論点が政治化され、それゆえに本来は似ているもの同士が真逆の結論に至っている。

リベラルが、本件で手続き論としての正当性や説明責任を超えて追加的に述べるべき論点とは何か。それは、人が「自らによって立つ」うえでの教育の有用性である。もしもリーダーが、幼い日の自らを夢中にさせた一冊について、あるいは不遇な時代を過ごしたときに自らを支えた一冊について語り、どういう支えの手があったからこそ、いまここにたどり着いたかを語れば、それは子供たちの胸に直接届くメッセージとなる。それが本である必要は必ずしもなく、スポーツや、実験や、遊びや、恩師である場合もあるだろう。けれども、教育の重要な部分を本が占めていることは確かだし、インターネットが主流を占める時代になっても、本に費やされてきたエネルギーを他の形で誰かが発散し、開花させるだけだ。その中身は変わらない。自分の成功してきた道だけでなく、多くの子供たちがいま何に支えられているのかに思いをはせ、それを提供しようと強く思うことが真のリベラルである。それは少数精鋭の学生を教えることにとどまらない。すべての人が成長のデルタΔを積み重ねることができる。少なくとも、私はそのような教師でいたいと思っている。

結局、今のような戦い方で日本学術会議を守ったところで、それは少数の東京大学をはじめとする、いかにも選ばれそうな大学人の権利を守ることにしか見えないだろう。私たちが守るべきものはもっと大きいことに気が付くべきだ。

そしてつまるところ、今回の政権にとって最初の難所を切り抜けるすべは、やはり右と左の融和を図ることだと私は思う。融和の目的は簡単だ。子供たちのため。私たちはいつだって、そのために合意できる。

(初出論座、2020年10月19日脱稿)