連載・寄稿
2020.08.30 News 連載・寄稿
安倍総理辞任
安倍晋三総理が辞任を表明した。ここしばらく健康不安が各紙に書き立てられていたが、6月から持病が再発し、執務に困難をきたす状況だったという。8年近くにわたる長期安定政権であったため、記者らも情報が錯そうしたなかでの突然の辞任を受けていささか放心状態にあるのではないかと思われるような質問が目立った会見だった。記者というのは当然、取材対象に人生の多くの時間を費やし、密着する。質問を投げかけ、回答を求めて追う側と、それを一手に受ける側。両者の一種奇妙な相互依存関係を窺わせる一コマであった。しかし、同時に感じられたのがこの政権になって著しく進んだ党派性である。質問ではメディアを選別した出演は安倍政権ならではの特徴ではないかという趣旨の問いかけもなされたが、党派性ということであれば、それは首相を取材する側もそうであり、そして政権側もそうであった。敵と味方が厳然と存在するという意味での党派性は、日本政治において全く新しい現象というわけではない。それこそ、日本社会党は55年体制の中で常に与党と対峙し続ける一大勢力であったのだから。
しかし、違うのは何かといえば、それはメディアを通して見る政治が少なくとも印象の上では大衆に開かれたものとなり、またメディア人自身がSNSで活動したりその声を拾ったりして、永田町に閉じられない活動を展開するようになったことであろう。以前ならば、推測や分析は早朝に戸口に届けられる新聞に刷り上がるまでは形にならなかったが、昨今ではSNSに飛び交う憶測や評価を後追いで新聞が記事にするようになった。めっきりと製作費が減ったテレビの情報番組は、大方その新聞やYahoo!ニュースの後追いである。その結果として情報や分析の精度が上がったわけでもないが、私たちは大量の情報をYahoo!やTwitterなどのプラットフォームでさばいて見る癖がついている。
メディア論が書きたかったわけではない。ただ、安倍政権の功罪を論じるうえでは、メディアや社会全体が政治との相互作用によって分断し、党派化していった過程をおさえておかなければならない。
安倍総理のかたさ
安倍総理を見ていて思うのは、言動やその背景にある理由がよく理解できる、ということである。おそらくこの8年近くの間、日本で最も知名度が高く、最も毀誉褒貶の声を浴びせられてきた存在である。総理の名前や顔を知らないというのは短期政権においては不思議なことでもなかったが、安倍政権の場合は違う。良きにつけ悪しきにつけ、これだけ注目の対象となり続け、しかも政権を崩壊させないできたということは、それだけのものを背負い続けるための精神的なコツをつかんでいるということでもある。岸総理の孫という血筋などのスタート地点の条件はあるにしても、三世や四世だからといって当然にこれができるわけではない。
すべてを包含しようとする人ではない。党派的であり、自分が取り込めない人にまで手を伸ばそうとするような過ちを決して犯さない。政敵に対してときに仮借ない報復をし、権力維持に関しては徹底して冷徹である一方、側近の高い忠誠心を勝ち得ている。ごく親しい友人以外にはひやりとした一線を引いて接しているが、非常に気さくな一面を持っている。閣僚のなかには、安倍総理が何を考えているのかわからないという状況も頻繁にあっただろう。君臨するという点においては、自民党内でも内閣においても堅かった。
しかし、記者会見においてもほかの場面においても、安倍さんの考える正道から外れた見解や質問が出されたときに、懸命にこらえて我慢している顔をすることがある。そうした不快さの表明は外遊で各国の首脳などと交流しているときには見られないものだった。それは、海外での明るい振る舞いの方が特別だったわけではなく、むしろ日本国内において、彼とメディアとの間に洒脱なキャッチボールが成立しなかったからであると思う。
同じように党派的なトランプ大統領は、リベラル紙を攻撃することが多いが、一方で主張の当否はさておき記者会見においては軽妙洒脱さを発揮することが多い。そもそもの人物としてテレビ的なコミュニケーションに長けた人であり、非常にわかりやすい英語で自らの語りに相手を引き込む技を持っている。
しかし、安倍総理に関しては日本国内のメディアとの関係はそのような洒脱なものではなかった。どちらかというとトランプ型の記者会見で暴れまくる大阪の橋下徹氏との大きな違いである。日本という社会はヒエラルキーに満ちており、総理職にお公家さん的な権威と品格を要求し、全体を包摂した態度を要求するところがある。実際、会議の場などでは総理の方からユーモアを小出しにして場の硬い雰囲気を崩しに行くところが多く、主張する人というよりは、受け止める人、まとめに行く人という印象の方が強いのだが、そういったかかわりを持たず、権力と対峙する記者会見や国会論戦の場でしか安倍総理を知らない人からすれば、真逆の印象を持つことだろう。
だから、日本の記者会見や国会論戦の場でのやり取りにおける不本意さを抱えた安倍さんという存在は、気難しく、ガードが固く、国民に語り掛けるうえで届く先が限られたものにならざるを得なかったのである。
安倍政権下での政策
安倍政権の施策は、個別に見れば成長重視の保守政権としてバランスの取れたものが多い。インフレターゲット目標は実現しなかったが、安倍政権下では景気がそれなりに回復し、雇用の創出が進んだ。経済政策としての性格を前面に出した女性活躍政策は基本的にアメリカで言えば市場重視型の共和党的アプローチとしての女性エンパワメント政策である。女性活躍政策にはキャシー松井氏がブレーンとしてかかわっており、グローバルにみてまっとうな政策である。企業ガバナンスの重視と働き方改革。外国人労働者の受け入れを拡大し、人手不足の業界に労働力を提供しつつも、日本人と外国人労働者の待遇のダブルスタンダードから転換を図ろうとした。インバウンド誘致を推進して海外の成長を取り込み、需要拡大をけん引した。消費税を5%から10%に上げながら政権を維持した。それによって景気はダメージを蒙ったが、金融緩和とセットで何とかやり遂げることによって財政に一定の持続可能性を確保しつつ消費税の政治的タブーを乗り越えた。
安全保障においては安保法制の策定によって集団的自衛権の一部行使を容認し、米国との同盟の連携性を高めた。外交面ではTPPをまとめたことが大きい。米国が内向き化し、米中新冷戦ともいわれるような世界史的な転換点の中で、自由で公正なグローバル経済の基盤構築に中心的な役割を果たした。同様に、EU、豪州とのEPAをまとめたことも大きい。
歴史問題においてはオバマ政権期に実現した日米和解の総仕上げとしての広島・真珠湾相互訪問が最も大きな成果であるが、国内的に大きかったのは戦後70年談話である。歴史認識について最保守の政権がリベラル側に歩み寄ることで国民の最大公約数の認識を形にした。すなわち、過去の戦争は国策を誤った間違った戦争であることを明確にしたうえで、未来永劫、我々の子孫にまで謝罪の重荷を背負わせるべきではないという立場である。総理自身は日本の開戦責任とそこで行われた数々の過ちを認めて謝罪している。結果として、左右両極には不満が残ったものの、国民の大半が合意する結果となった。
慰安婦合意についても、韓国との間では文在寅政権と合意が破綻してしまったものの、国内の認識は保守優位で決着を見たために政治争点から外れた。戦後レジームからの脱却という言葉はここしばらく使われていないが、中身を見ればその多くが事実上実現したことが分かる。
一方で、アベノミクスの三本の矢の三本目であったはずの構造改革においては政権初期を除いて成果が上がらず、大玉の改革案件は先送りされた。長期政権を維持するために、自民党を支える保守が割れるような争点を嫌った結果でもある。人口減少を前提とすれば日本の成長は生産性を改善することでしか達成できないのだから、既得権にメスを入れ、競争を促す政策がもっと必要だった。
政権運営においては透明性の不足や公文書管理の在り方、官僚の用い方に対する批判が多かった。官邸主導の政権であったために自民党の部会が従前のようには機能せず、かえって政策が生煮えのまま法案が国会に提出されたり、大臣が十分に手柄を立てさせてもらえずにすべての重要課題が官邸に集められ、官僚も党派化する面があった。公務員の忖度や改ざん、ずさんなデータ管理などの不祥事が相次ぎ、公務員改革には手を付けられなかった。
保守政権であることを前提とする限り、限界はあれど、多くの成果があったとすべきだろう。
しかし、安倍政権の成果はこのように評価できるものの、一般的な見え方としては異なる性格を持っていた。それが、左派バッシング政権としての安倍政権の性格である。
左派バッシング
日本のメディア空間においては、保守派はかつてマージナルな存在だった。言論空間が開かれていなかった時代には保守と革新の間に今よりも議論は成立しており、実際に転向組も少なくなかったことから何らかの共通言語を共有していたが、歴史認識などのいくつかの重要論点においては、リベラルメディアが政治家に踏み絵を迫り、正道から外れた意見に「排除の論理」を働かせてきた。
安倍政権の特徴は、野党への転落を経験した自民党を、キャッチオール型の政党から普通の政党へと変貌させたことである。それを象徴するのが、民主党政権を「悪夢」と呼び、「左派」という敵を設定してそれを攻撃してきた手法である。小泉政権がアンチ・エスタブリッシュメント感情を掻き立てることで霞が関に対抗する構図に国民の支持を集めたのに対し、安倍政権はむしろ安全保障、歴史問題や国家権力の行使などの問題において、左派バッシングを行うことで求心力を得た。日本は右傾化しているということが安倍政権になって盛んに論じられたが、それは正しくない。政治のスコープがアンチ・エスタブリッシュメントという広いポピュリズムから「左派」バッシングへと縮小しただけである。しかし実際には、女性問題を筆頭に社会政策において近年の日本はリベラル化している。政府主導で民間企業の女性幹部割合の引き上げが求められ、体罰などが許容されない風潮へと移行した。
かつての「左派」優位の言論空間においてパワハラや女性蔑視的発想がまかり通っていたことからしても、安全保障や歴史問題における対立が社会の問題のごく一部にしかすぎないことは確かである。
世代交代を通じて戦争経験者が減り、第二次大戦の過ちに対する国民の当事者意識は低下した。しかし、そののちも慰安婦問題をなどでリベラル系メディアが「踏み絵」を迫り続けたことは、却ってリベラル系メディアの力を弱めたといえるだろう。
とりわけ安全保障問題について、日本の議論がバランスを欠いていたのに、冷戦終結後も同様の認識を持ち続けたことが、安倍政権に力を与える結果となった。実際には民主党政権は尖閣諸島国有化で中国と対立し、安全保障においてもリアリズム路線をとっていたにもかかわらず、左派というイメージが先行して一括りで語られることになったのである。
当然、安全保障や歴史問題に関心を持つ割合は若年層ほど少なく、左派バッシングが国民の多くの関心を惹きつけられるわけではない。しかし、反安倍政権の人びとが左派バッシングの挑発に乗ってしまう形となり、かえって不合理な勢力であるという印象を与え、また野党も自らの支持層が実は中道に広がりを持っていることを見誤ったため、支持が失われた。結果、対抗勢力を左派としてマージナライズするという戦略は成功を収めた。小泉政権における「抵抗勢力」と同じ、極端な勢力として一括りにされることに甘んじたわけである。
安倍政権以後、このような構図から野党が逃れられるのかどうかは、野党の現状認識如何にかかっている。また、安倍さんが引いた後の自民党政権においても、より広く国民を惹きつけるキャッチオールを目指すのか、それとも野党の台頭を許しつつ普通の保守勢力となるのか、選挙を見据えた戦略が問われていると言えるだろう。
(初出「論座」、2020年8月30日脱稿)