連載・寄稿
2018.02.26 News 連載・寄稿
日本人の憲法観
憲法は誰を縛るのか
憲法とは、権力を縛るためのものである。憲法改正や憲法解釈をめぐる論争では、リベラルや憲法学者から必ずといってよいほどまずはじめに発されるメッセージです。それに対して、一部の憲法学者からは、昔のような国王に対する制限をかけていく立憲主義のかたちではなくて、最近の憲法観では国家構成員である国民相互の約束と権利義務を定めるものへと変化してきているという主張が行われます。
両者は全く平行線のままで、お互いに譲ろうとしません。なぜこのような論争が起きてしまうのか。それをまず紐解いてみましょう。
憲法が権力を縛るためのものであることは当たり前のことです。日本国憲法ではまず、天皇という戦前には圧倒的に強力であった存在を、儀礼的な国の象徴とすることで、天皇が権力となる道をふさいでいます。さらに、三権分立という現代の民主国家で一般的にとられている権力均衡のシステムを備えることで、権力への縛りを達成しようとします。そして、国民の権利を明記し、政府がやってはならないこと、しなければならないことを明記することで、大まかな憲法の骨格が完成するわけです。制度的な手続き論は、その目的に従って細かく定められていくことになります。
矛盾しないふたつの立場
では、憲法が国民相互の約束と権利義務を定めるものであるという考え方は間違っているのでしょうか。
義務をどこまで定めるのかという考え方には、いろいろな立場があり得ます。例えば、私は国民に納税の義務はあると思いますが、国防の義務があるとは思っていません。ホッブズでさえ、国民は命を賭して最後まで戦う必要はないとした。私は、国家は国民を守るために求められて存在していると考えていますので、国家は国家として国民を守るための仕事をすべきだと考えており、国家がその任を果たさなくなったならば、その国は滅びたり衰退したりするのだと思っています。
国民相互の約束という性格は、議会を設けたり、公共の福祉の考え方に沿って利害調整をしたりする時に生まれてくる考え方だと思います。すなわち、国民は内戦をせずに行政府を監視するために、立法府に代表を送り込み、選挙を通じて意思表明する。また、利害が衝突する場合、人にはすべての自由が許されるのではなく、あくまでも他人の自由を侵害しすぎない範囲で調整が行われます。
ということは、本来両者の考え方は(治安のための措置や国防の義務などのいくつかの具体的な論点では論争が生じうるとはいえ)矛盾するわけではないはずです。つまり、憲法はまずもって権力を縛るものである一方で、前文に書かれたような世界平和という理想を目指す国民の宣誓でもあり、かつ国民を守るために存在する国を、納税などを通じて支えていく国民相互の約束でもあるということです。
にもかかわらず、両者が激突するのはなぜか。背景にあるのは、保守の憲法観に潜む日本独特の道徳律に他なりません。
厳然と存在するのは神ではなく道徳
日本の憲法観は、人民が神の前において誓うといった米国的なものではありません。米国は後発の「人工国家」であるがゆえに、常に憲法に忠誠を誓うという感覚知が社会に存在します。それゆえ、毎年新しく国民となる移民は、憲法を勉強しなければなりません。
日本社会において厳然と存在するのは、神ではなく、むしろ道徳である。だから、規範というものが、社会道徳に流れ込んでしまう構造が常にあります。また、日本の地に日本人の父母のもとに生まれた人が大多数を占めるため、日本人であることの必然性は原則ではなく経緯に根差すことになる。
神に、あるいは神の前で国家をつくり同じ国民たるべく誓うのであれば、憲法というものが、社会で異なる人々が殺しあわずに共存するための取り決めであり、かつ権力を人民が縛るものであることがもっと容易に理解されたでしょう。けれども、日本社会においては、それが社会の相互監視や、お上による定めと受け止められてしまう風土があるわけです。
憲法は単なる「道徳律」ではない
だからと言って、立憲主義を支える憲法が、単なる「道徳律」に堕していいわけがない。そうなると、独自の歴史的進化を遂げてきた日本の近代主義に対する冒とくにもなるからです。
こう言うと、決まって飛んでくる反論に「だけど、いいことじゃないか」というものがあります。家族を大切にすることはいいことじゃないか。結婚を通じて子供を産み育てることはいいことじゃないか、と。もちろん、世の中にはいいことはたくさんあります。
英語で「マザーフッド&アップルパイ」という言い回しがあります。いいに決まってることの総称です。そこには、「当たり前で、大して意味のある事を追加的に言っていないじゃないか」というようなニュアンスも含まれています。
いいことを単に言うだけなら簡単です。でも、複数のいいことが相互に対立する場合もあるかもしれない。書いただけでは実現もしない。理想があるのならば、それを実現する難しいプロセスを考え、反対する人と議論し、実行に移していくことこそが政治であって、憲法はそのような人々が合意形成を行い、政治を行うための骨格を準備するものです。
憲法に書くべきこととは
要するに、いいことだから、憲法に書くべきとはならないのです。いいことのうち、憲法に書くべき事柄かどうかということは、道徳律なのか憲法に定めるべき規範なのか、判断する必要があるのです。憲法に「母の日にはお母さんに電話をかけましょう」とは書かないし、「温泉につかるとき手ぬぐいを湯船にいれてはいけません」とは書かないのです。自分がいいと思う価値観や道徳を単に主張することと、憲法に入れ込んで人に強制してしまうというのは次元の違う話だからです。
いいことは、そのまま雑談で話している分には問題ない。でも、アップルパイが好きなひとが大半だったとしても、アップルパイが嫌いな人がいたらどうでしょうか。アップルパイを食べなさいと推奨すべきではないですね。両親がいない人、家族に冷たくされたトラウマを持つ人にとって、家族を大切にしましょうと憲法や法律に書いたならば圧迫になりうるし、政府が、自らの責任を放棄してしまうことにもつながりかねません。家族を大切にしようとするあまり、家族を持っていない人に不利益が及ばないよう、人々の自由な選択に配慮する必要もあります。
憲法に道徳を書きたいと思った方々は、むしろどうしたら幸せな家族が増えるのかを考えなければいけません。例えば、虐待されている子供を行政が早期に発見したり、高齢者の介護の負担がのしかかりすぎないように社会福祉を提供したり、家族を持ちやすいように雇用環境を安定させ保育施設をつくったりすることかもしれない。
保守が裡に抱える道徳律と憲法概念の混同ゆえに、それに反発する陣営が、憲法を行政府の手を縛るものとしてしか見なくなってきている。それこそが、この問題の本質なのです。
憲法問題に熱くさせられるわけ
それにしても、憲法をめぐる問題は、どうして我々をここまで熱くさせるのでしょうか。
憲法が立憲主義を体現するもので、法の支配を支える最高法規だからでしょうか。本来は、そうあるべきなのかもしれません。しかし、現実は、おそらくそうではない。
それは、憲法、特に第9条が、我々がどのように歴史を解釈し、自らのアイデンティティーをどう定義するかに深く関わっているからです。生き方の問題だからこそ、それを変えたい側も、変えたくない側も熱くなるのです。
別物の9条の1項と2項
憲法9条1項は、戦争放棄をうたっています。趣旨は国連憲章と同じです。二度の世界大戦を経た世界が、再び戦争の惨禍に陥ることがないように、世界中の国々に対して戒めとして課している原則です。
9条2項はまったく異なります。戦力の不保持と交戦権の否定を掲げる、戦勝国側が敗戦国である日本に課した典型的な「敗戦国条項」です。第一次大戦後、ベルサイユ条約においてドイツに課されたものと同じ趣旨です。日本国憲法が米国による軍事占領中に成立していることを想起すれば、さほど驚きはない。
9条2項は、日本が主権を回復したあかつきには、撤廃されることが当然視される規定でした。ところが、そうはなりませんでした。21世紀に生きる者にとっては、独特の不可解さが残る歴史です。
奇妙な転換を見せた憲法をめぐる政治
鳩山一郎に代表される創成期の自民党員の多くは、本気で自主憲法の制定を考えていました。当時は、革新側の社会党でさえ、別の理屈でもって自主独立路線をとっていました。しかし、時の自民党内の力学や、憲法改正のハードルがあまりに高かった結果として、実現には至らなかった。
憲法をめぐる政治は、この後、さらに奇妙な転換を見せました。
ひとつは、極東にまで及んでいた冷戦の現実のもと、自衛隊が強化されるという流れです。日本の非武装化を推し進めていたはずの米国の政策転換と日本への要求に対し、日本政府はその要求を少しずつ薄めながら実現するという方針を取りました。そうするうちに、憲法と現実の間の矛盾はどんどん広がっていきました。そこで法治国家としての対面を保つため、奇妙な憲法解釈が次々と編み出されていったのです。
もうひとつは、憲法9条の神格化という現象です。自尊心を傷つけられた敗戦国の国民は、9条をナショナリズムの代替物と捉えるようになった。「憲法9条を戴く日本国民は特別な存在」、「世界に憲法9条を広げよう」という発想です。敗戦国に課せられた制約であったはずのものが、戦後日本の精神史における独特の倒錯の中で、「誇るべきもの」、「信仰すべきもの」へと転換したのです。
9条が担った様々な役割
革新陣営にとっては、憲法9条こそが、戦前的なるもの、国家主義的なるもの、家父長主義的なるもの、保守政治的なるものを否定する、万能の「おまじない」になりました。一党優位体制を築いた自民党の実態は、一貫した思想的背景を有する保守政党というよりは、派閥の連合体に近いものでしたから、自民党内の「リベラル」勢力もまた似たような態度を取りました。
また、政府は9条の制約を盾に、国民の不人気が予想される地域紛争への介入を回避することができました。ベトナム戦争でも、湾岸戦争でも、この論法が用いられました。一方、野党陣営は足並みが乱れがちな問題に対処する際に、9条を掲げることで一体感を保つことができました。今でも、労働問題や原発問題を扱っているはずのデモで「9条守れ!」のプラカードが躍っているのは、象徴的です。
本丸はやはり9条
これに対し安倍政権は、憲法改正に正面から取り組まず、先送りを続けてきた歴代自民党政権と一線を画する行動に出ました。史上初めて、憲法改正を現実の課題として政治的なカレンダーにのせたのです。
憲法改正については、これまでも様々なアプローチが模索されてきました。改正条件を緩める方向性は「裏口入学」という汚名の下に否定されました。緊急事態条項や、教育の無償化を取り上げたいという動きは今でも存在しますが、求心力を持つに至っていません。それぞれが大事な論点を含んではいても、アイデンティティーの問題ではないからです。
本丸はあくまでも9条。改憲発議と国民投票という政治的エネルギーをかけるに値する論点も、現時点では9条のみでしょう。
安倍政権が改憲で狙うものは
安倍政権下でもし憲法改正が行われ、後世、その歴史的意義を評価するならば、保守優位のもとで戦後日本のひとつの象徴に幕を下ろしたということになるでしょうか。
安倍政権はすでに、「戦後70年談話」を通じて、この保守優位による和解(あるいは落着)という果実を経験しています。70年談話では、保守がリベラルの価値観に歩み寄り、かつ自らも納得できる物語性を演出したことで歴史理解が確立し、広くメディアも学界も談話を是認しました。戦後、最も右派であったはずの政権がその和解を実現したことによって、ひとつの論争がある程度終わったのです。
安倍路線で憲法改正が実現すれば、歴史は動き、日本人は憲法をめぐる問題を自らの主権に基づいて整理し得たことになるでしょう。仮に、それが象徴的な改正でしかなかったとしても、以後、憲法は「押し付けられた」ものでも、「与えられた」ものもなく、自ら選び取ったものとなるからです。
安倍政権は明らかにこの象徴性を取りに行っているわけです。そして、最も現状を変化させない抑制的な提案に対してさえ、安倍政権の下での憲法改正は認められないと言い続けている野党は、政権にこの政治的勝利を与えたくないのです。
主戦場は「政治的」次元に移行
自衛隊を明白に合憲な存在として位置付けたいのならば、法律的、政策的には、憲法9条2項は削除したほうがいいに決まっています。ただ、主戦場はすでに「政策的」な次元とは別の「政治的」な次元に移行しているのが現実でしょう。
総理が提案した1項、2項を残した上で自衛隊の存在を明記する案は、公明党の賛意を取り付け、国民投票に勝てることから逆算された案です。結果的に保守勢力の足並みは揃いつつあります。筋論としては2項削除のほうが望ましいと思っている自民党議員は多いでしょうが、政治的勝利のためには総理案まで後退せざるを得ないという情勢判断にも、経験値に基づいた重みがあるからです。
自民党改憲案がもたらした結果
自民改憲案の輪郭はだんだんと見えてきましたが、昨年からの流れで、結果的に良かったことがふたつあると思っています。
ひとつは、自民党の2012年改憲草案に代表される復古主義的な改正案が否定されたことです。そもそも、個人主義を否定的に捉え、「家族は助け合わなければならない」という、道徳と法の混同が見られる改正案は、早期に否定されるべきものでした。
もうひとつは、現在の野党は、いろいろと理屈をつけて現状維持を目指しているに過ぎないことを明らかにしたことです。立憲民主党の枝野氏は、メディアでは自分は護憲ではないと言いながら、支持者に向けては9条には指一本触れさせないと言う。安倍政権が掲げる、考えうる限りもっとも抑制的な改正案(なんせ、公明党に忖度してつくられたものですから)にさえ取り合おうとしない。
日本のリベラルが、世界標準でのリベラルとは何の関係もない方向に独自の変化を遂げてしまった存在であることは、これまでも指摘されてきたことです。論者やジャーナリスト一人ひとりを見ればそうではなくても、政治勢力となった瞬間に、自由な発想ができなくなる。実は、自らの支持基盤の求心力を維持することに関心があるだけで、憲法と自衛隊という現実の間に存在する矛盾にも、近代国家として有するべきシビリアンコントロールの仕組みにも関心が薄いことを露呈してしまいました。
簡単ではない憲法の改正
ここまで、改憲をめぐる歴史的な流れや、改憲が象徴する政治対立の本質について見てきました。本稿の締めくくりに、少し現実政治の話をしたいと思います。
おそらく憲法9条はやがて改正されます。現在の日本が置かれた環境のもとで、国民が9条への信仰を維持することは不可能だからです。それは、戦後の特殊な言論空間において教育を受けた世代が、物理的に存在しなくなることによって達成されるでしょう。
古い世代の考えを変えることは難しいことです。現に、憲法については70年以上変えることができませんでした。けれど、世代交代を通じて時代というものは変えられます。ですから、憲法改正をめぐる長期的な帰趨について、私はとても楽観的です。
ただ、長期的に楽観できることと、短期的に安心できることは同じではありません。いま改憲発議や国民投票を行ったとして、改正は簡単ではないとも思っています。政府や、改憲運動に関わる者のちょっとした失言で、あっという間に流れは変わります。米国の2016年大統領選挙では外国勢力の介入があったことがわかっています。憲法改正の国民投票に際しては、不当な介入がないか警戒する必要もあるでしょう。
シビリアンコントロール明記に込めた意味
憲法改正にむけた流れは、多大な政治的エネルギーを伴います。国民が変化を望み、受け入れるためには、希望を抱けるような前向きなメッセージが必要です。
自衛隊の存在を書き込むだけで現実は何も変わらないというストーリーで、果たして国民は熱くなれるでしょうか。国民は、ごまかされているという感覚にはとても敏感です。安全保障から誤魔化しを廃し、主権国家として当然の変化を起こそうとしているだけで、痛くもない腹を探られる展開となるでしょう。
私はかねて、憲法への自衛隊の存在の明記に加えて、シビリアンコントロールの諸原則を書き込むべきと主張してきました。一定の理解が広がってきている感触はあります。そう申し上げてきたのは、軍的なるものを持つことの本質から逃げ続けてきた戦後日本人にとって、それが不可欠と思っているからだけではありません。国民投票に向けて、もう少し理想を高く持つことが、改正を実現するためにも必要だと思っているからです。
(初出「論座」、2018年2月26日脱稿)