トランプ政権誕生12日目
衝撃と畏怖
トランプ政権の誕生から12日が経過しました。営業日ということでいくといまだ10日にも満たないわけですが、同政権が発する大統領令に世界中が振り回されています。歴代の新大統領も、政権発足100日プランを作成し、一気呵成に懸案の処理にあたってきました。しかし、トランプ政権のアプローチはそれでは説明できないレベルでしょう。
既に、一つ一つが大論争を引き起こすような大統領令を乱発しています。TPPからの永久離脱、メキシコ国境との間の「壁」の建設の開始、キーストーン・パイプランの建設容認、75%の規制撤廃を目指す宣言、そして、イスラム7か国から入国の一時停止などです。それらの大統領令に加えて、閣僚の人事案が上院で審議中であり、米国内政上は最大級のイベントである最高裁判事の推薦も行われる予定です。
これらの大統領令に対しては、気まぐれな大統領と経験の浅いチームによる「無茶」であるとの批判があります。中身が無茶であるとの結論については共感するところがあるものの、それは現状認識としては甘いと思っています。トランプ氏当選以後、一部のメディアや識者は、トランプ氏も大統領になれば、現実的になり、大人になるだろうという観測がありました。今日の事態は、それが浅はかな希望的観測に過ぎなかったことを物語っています。
私は、トランプ政権の初動が、軍事におけるShock & Awe(衝撃と畏怖)戦略に似ていると思っています。衝撃を与え、息がつけない間に次々と攻撃作戦を展開していくというのは、心理戦を含めた現代戦の定石です。その前提は、攻撃側が圧倒的な軍事力を持っていること、そして、戦闘が長引くことで戦況が不利になるという読みがあるということです。言ってみれば、物量で相手の戦闘継続意思をくじき、それに対応している間に「勝利の既成事実」を作ってしまおうという考え方です。
そんな政権にとって、反対派やメディアの批判はむしろ追い風となることさえあります。一部の戦線で批判を続けているうちに、次々と新しい政策や宣言をしていくことができるからです。反対勢力と比して、政権は多方面に政治的資源を投入できますから、戦線を拡大することで有利に立てるのです。
そんな手法が倫理的でないのは、わかりきった話です。ただ、2週間足らずの経緯を見るだけでも、トランプ政権の性格が見えてきたように思います。
第一は、この政権は敵を作ることを恐れていないこと。変化を望んだ民意によって権力が支えられているというのもあるでしょうが、ある種、破壊の願望すらを感じます。第二は、主要な意思決定はホワイトハウスの中枢が握り、政治任用のプロ達は遠ざけていること。それ自体は、珍しいことではありませんが、ホワイトハウス中枢に怪しげなイデオローグ達が陣取っていることは不安要素です。第三は、議会を掌握し法律を通せるかという実務能力の根幹に不安を抱えていること。共和党の主流派はどうにも腰が定まっていないので、短期的に成果を出して世論の流れを作ろうとしているのでしょう。
トランプチームの選挙参謀として途中から入ってきたコンウェイ氏は、やり手の女性で、臆面のないリアリズムを持った人です。黒も白と言い切ってしまうスピンドクターであり、保守の信頼の厚い手練れの参謀です。その彼女は、一連の政策は現状のシステムを揺り動かすためのものだと言います。以下に邦訳した字面には、確かに、怖いものがある。
「慣れなさい。大統領は行動とインパクトの人です。約束をし、約束が守られたのです。システムに、ショックを与えるものです。それに彼はまだ始めたばかりよ。」
しかし、彼女は間違っていません。トランプ政権は、確かに始まったばかりなのです。
イスラム7か国からの入国一時停止
乱発された大統領令の中で、最も反発を呼んでいるのがイスラム教国7ヵ国からの入国を一時停止するものでしょう。多民族国家であり、移民の国である米国の自画像に関わる問題だけに、関係者の感情も高ぶっています。自由と平等と安全にかかわる重要な問題ですから、感情的になるのも当然でしょうが、議論が錯綜している感は否めません。敢えて、冷静に、事態を見るべきと思います。
議論が錯綜している原因は、様々な次元の議論が一緒くたに行われているからです。本件については、国際法、国内法、政治、政策の各レイヤーそれぞれに見るべき論点があると思っています。
まず、国際法のレイヤーについて。すべての主権国家には、外国人の入国を拒否する権利を有しています。そもそも、パスポートやビザ(=査証)といった国際的な人の移動を管理するためのツールは、その大原則に基づいて存在するものです。現に、日本も、米国も、昔から政府の判断で外国人の入国を制限してきました。それは、テロ対策などの安全保障の観点から行われることもあれば、不法就労の防止などの治安維持的、経済的な理由から行われることもあるわけです。
査証の発行に、教育水準の基準を設けたり、経済的な条件を課したりすることは、現在の世界では、当たり前なのです。もっといい加減な、差別的な理由で外国人の入国を制限する国もあります。それは、主権の核心をなす部分です。主権国家体制を根本からひっくり返そうとするのでない限り、国際法的には、今回の入国一時停止策はなんら問題ないということです。
次に、国内法のレベルについて。米国の国内法の問題としては、本件は微妙です。そもそも、米国民を対象とした政策でないから米国国内法は関係ないという形式論はあるかもしれません。が、二重国籍者や永住権保持者も実態として対象となっている以上、形式論で片づけるべきではないでしょう。
本件は、レイシャル・プロファイリング(=民族選別)の問題として理解すべきでしょう。レイシャル・プロファイリングとは、人種や宗教などの外形的な要素によって政策対応を一様に規定する手法です。特に、犯罪捜査や治安維持の分野で問題となり、繰り返し、その違法性が争われてきました。究極的には、憲法修正第4条の「違法捜査」、憲法修正第14条の「法の下の平等」に反すると。
しかし、現在に至るまで確定的な司法判断は存在せず、曖昧な状況が続いているというのが実態です。そして、治安維持や国境管理の現場では、現実の政策として、採用されています。プロファイリングの必要性を訴える側、あるいは、事実上プロファイリング的な手法を継続する側は、ある集団の犯罪率や危険性を問題視します。対して、反対する側はその差別性を問題視します。安全の問題と自由と平等の問題がすれ違い続けているわけです。
しかも、現場に近くなればなるほど、単なる差別なのか、集団の属性と危険性の間に相関があるのかは曖昧になっていきます。今般の大統領令は、一部の報道が混同しているようなイスラム教徒への一様の入国停止ではありません。あくまで、テロ支援の過去や国内統治に課題を残す7ヵ国を対象としており、一様性についてはグレーな領域でしょう。
最後は、一部に不正義が存在することを前提として、安全のためにはやむを得ない犠牲として許容すべきかという、比較衡量の問題とならざるを得ないわけです。比較衡量の世界は、一義的には行政が判断すべき領域であり、二義的には司法の場で争われることとなるわけです。
三つ目は政治のレベルについて。今般の件は、政治的には明らかな「見せしめ」です。イスラム教徒の入国停止を選挙公約としたトランプ氏としては、支持者との約束を果たしたい。自分の政権の政策実行を妨害するリベラル勢力やメディアを罰したいということでもあります。そこに込められたメッセージは、自分達は勝ったのだということです。
政治論としては、政権にも一定の理があります。2011年には、オバマ政権もイラクからの難民の入国を安全保障上の理由から6か月間停止しているからです。反対党の政権時に前例があるとすると、現在抗議している人たちの偽善について問わざるを得ないからです。また、すべてを前任者達の責任とするのが妥当かどうかはともかく、中東の混乱を収拾できない弱腰政権だから難民が増えたんだとか、そもそも無謀なイラク戦争を行ったからいけないのだという主張もしている。トランプ政権の特異性は、自分達は過去の共和党政権の失政にさえ縛られないという立ち位置を取っていることです。それは、ワシントン政治の腐敗が生んだことで自分には関係ないと。
最後が、政策のレベルについて。この部分については、比較的はっきりしています。これら7ヵ国からの入国を禁止しても、米国がより安全になることはないということです。政策論としては、たいして意味がないということについて専門家の意見はほぼ一致しています。そもそも、サウジアラビアやパキスタンが含まれないのは、テロ対策という目的が本当なのだとすれば、不自然でしょう。
たいして意味がないのに行われているのは、それが国内向けのイデオロギーに基づく政策だからです。大統領令が、マティス国防長官やケリー国土安保長官などのプロではなく、ホワイトハウスのバノン上級顧問主導で導入された経緯からも明らかでしょう。
ただ、大統領令によって、イスラム教徒の反発を招き、それによってイスラム原理主義との闘いにおいて、穏健なイスラム勢力の協力を得られなくなる。だから、米国の安全性はより低下してしまったというリベラル側のロジックについては少々疑問です。
このロジックが成り立つためには、リベラルなオバマ政権の時には穏健なイスラム教勢力と米国の協力がうまくいっていたということが必要になりますが、そんなことを思っている人は皆無でしょう。そもそも、イスラム原理主義との闘いにおいて、協力関係を取り結べるような穏健な勢力は存在するのか。むしろ、協力関係を築く相手には、イスラム原理主義勢力と同程度に残酷な権威主義体制しかないのではないかということです。そして、彼ら権威主義体制は、米国内向けの差別的な政策をそれほど気にしてないと。
根源的な課題は何か
以上を総括すると、国際法的、国内法的、政治的には本大統領令についてはグレーな評価しかできないということだと思います。最も説得力のある反対論は、政策的な観点から行われているものです。私自身の立場も、政策効果に基づく反対というものです。
ところが、メディアの批判は、ずいぶんと観念論に拠っています。米国の価値観が危機に瀕していると、いかなる形であれ差別を許容してはいけないと。私自身、事実関係を分析しただけで随分とバッシングを受けたものです。すれ違いの原因は、時代認識というか、事態はどのくらい悪化し得るかという認識の差に基づいていると思っています。
我々が生きる時代の課題は深く困難なものばかりです。世界の安全と正義を仕切る国が存在しない中でどのように中東の混乱を収めるか。そこに巣食うイスラム原理主義と先進国のテロに対する脆弱さをどのように克服するか。多くの国民の支持を失った多様性のメッセージだけが突出する政治から一歩踏み出し、どのように多民族国家の一体性を高めるか。資本主義への信頼を更新し、自由を守るために何から手を付けるべきか。これらの課題への対応を間違えば、世界はもっともっと悪くなり得ると思っています。実際、我々は時代の結節点に立っているのでしょう。
リベラル勢力が勘違いしてはならないのは、トランプ政権を止め、トランプ政権を倒すことだけでは、以上に掲げた課題は何ら解決しないということです。アメリカの歴史には、各国と同様に恥部があります。20世紀前半には、無政府主義者や共産主義者への苛烈な弾圧がありました。欧州で迫害されていたユダヤ人を見殺しにし、日系人への組織的な人種差別と人権蹂躙がありました。暗い時代であったことは間違いありません。それでも、米国という国が暗黒からは辛うじて逃れ得た国であったことは記憶されるべきです。
米国は、共産主義や国家社会主義に走ることはなかったし、完全なる警察国家となることもありませんでした。最後の最後に米国を踏ん張らせたものが何だったのかが重要なのです。それは、たくましい個人主義であり、分権的な政治文化であり、普通の人々の親切心と良識だったと思います。
トランプ政権の登場を受け、そして、数々の過激な政策発表を受け、リベラル勢力による大動員が続いています。反対する政策に対して意思表示することは重要です。しかし、反対が力を持つためには、中道の国民を包摂するような寛容さがなければいけないし、実現可能性を考慮した代替案がなければいけません。それがなければ、偽善と自己満足とのそしりを免れないでしょう。
米国は、自身の自画像をめぐる戦いの真っ只中にあります。それは、世界に影響を与える戦いであり、世界中で戦われている戦いでもあります。その戦いは、これから長く続くものです。その戦いを通じて、我々が生きる時代の課題へと答えを出していかねばならないのです。(はてなブログ「山猫日記」初出)