2019.08.07

「やせがまん」できなくなった社会―あいちトリエンナーレ問題を考える

あいちトリエンナーレ問題

過去1週間ほど、愛知トリエンナーレをめぐる問題がマスコミやSNSを賑わせています。多くの識者が発言をしているところですが、極々簡単に出来事の時系列を振り返っておきましょう。

話題になったのは、「表現の不自由」と名付けられ、過去数年の間に公共の美術展から排除された展示を集めた企画展でした。その中に、慰安婦像を髣髴とさせる作品、昭和天皇の御影を焼くという作品が含まれていたことで、反発が広がります。展示に対しては、一般国民から多くの抗議があったほか、河村名古屋市長をはじめとする政治側から企画の中止を求める具体的な要求もありました。結果的には、総責任者である大村知事の判断で、抗議の一部に観客やスタッフの安全を害する可能性があるものが含まれていたことを主な理由として、展示そのものを中止することとなりました。

一連の問題は、確かに多くの論点を含んでいます。中心にあるのは、表現の自由をめぐる問題と、公金支出の適切性をめぐる問題でしょう。が、他にも、抗議の一部がガソリンをまくことに言及するなど暴力化していたことに対して、他の脅迫事件やテロ予告の事案と比較して、治安当局の動きが適切であったか、という点も指摘されました。殺到する抗議をさばかなければいけなかった職員のケアの問題や、今般の企画者の認識や覚悟に注目する意見もありました。各識者が、それぞれの政治的立場と、何を重視するかという職業的視点から論点を設定することは当然ですから、論点が拡散することは必ずしも悪いことではないでしょう。

批判をめぐる平等性と二重基準の問題

私自身は、特に発言するつもりはありませんでした。表現の自由をめぐる問題も、暴力的な脅迫をめぐる問題も、左右の対立も日常的に発生していて、すべての事象にコメントすることは不可能だからです。今般の問題発生後にSNS上でも指摘されているとおり、自衛隊の地域社会へのアウトリーチや、保守的な人気作家のサイン会等が妨害される事案は日常的に起きています。全ての事案に対して、言論の自由という原理原則に基づいて、平等に情熱を傾けることはもともと無理な話です。

すべての識者は、意識的にも、無意識的にも、守るべき具体的な価値という自分なりのものさしをもって発言の有無を判断しています。私自身ももちろんそうです。今般の企画展については、作品そのものは「物議を醸す」という要素の他は特に価値のあるものとは思われません。まあ、企画が体現するキュレーションの政治性にこそ意味があるのでしょうから、個別作品の表現の稚拙さを云々してもしょうがないのでしょうが。

もっと言えば、私自身が言論活動を封殺されるような圧力を受けてきた中で、「まあ、そんなものだよね」と、半ば慣れてしまったというのもあるかもしれません。暴力による脅迫を伴うかどうかで一線を引くという意見も見られます。それは、筋論としてはその通り。ただ、私自身への圧力は、私が女性ということもあって、殺す、犯すなどの暴力的な表現を伴いがちです。残念ながら、現実としては、言論を封殺する圧力と暴力は連続的な現象なのです。

最後に、今般の渦中におられる津田大介さんについて、私自身は友人として付き合ってきました。お互い言論人である以上、友人関係を超えて言わなければいけないこともあるけれど、個人の趣味の問題として、SNSで後ろから人を刺している人々がどうにも好きになれないというのはあります。

言論の自由を守るコスト

今般の問題の一つの論点は、表現の自由を守るためのコストの問題であると思っています。私自身は、思考と表現でもって生きている者ですので、人並み以上に表現の自由を重視しています。そして、言論の自由とその表現が好ましいかどうかとは関係ありません。むしろ、もっとも好ましくない表現、自分としては憎悪するほどの表現にも保護を与えるというのが真の立憲主義者の立場です。

であるからして、行政の責任者はいったん芸術監督を任命した以上、企画の具体的な中身には、事前であれ事後であれ、いっさい介入すべきでないと思っています。そして、政治的に物議を醸す企画に抗議が集中し、それらの抗議の一部が暴力を示唆するものであったとしたならば、行政の威信にかけて表現の自由を守るのが筋であると思います。会場の安全確保のために機動隊を動員して警備を強化し、追加の支出を伴ったとしても来場者の身体検査、持物検査を実施して、安全を確保すべきだったのではないかということです。

もちろん、政治はきれいごとではありません。大村知事は、民主主義に基づいて選ばれたリーダーであり、言論の自由という原則の他に、今般の具体的な展示内容への支持の度合いを計算に入れなければならないでしょう。多くの国民は、言論の自由という「立憲主義的な原則」と、「守ろうとする表現の価値」を区別しません。実際、天皇陛下の御影を焼く、あるいは、現に日韓で外交問題となっている慰安婦像をめぐる表現には大衆の支持はほとんど集まらないでしょう。民主主義上のリーダーである大村知事は、この現実に敏感であって当然であり、「安全」という落としどころへと着地させた判断には、理想の力は感じないにしても、妥当ではあったと思います。

繰り返しますが、私は、言論の自由は立憲主義の観点から可能な限り重視すべきと思っています。言論の自由が制約されるのは、他の誰かの個別的な人権が制約されるときだけであるべきです。他人への脅迫や名誉棄損など具体的な被害を伴う場合であって、かつ、公共性の観点から正当化できない場合だけということです。であるからして、言論への制約が、特定の集団への概念的な被害を伴う段階で規制することには反対です。昨今のヘイトスピーチを規制する流れに反対なのも、言論の自由への制約が大きすぎると考えるからです。

弱者認識の奪い合い

今般の企画展に並べられた作品のほとんどは、左派的な政治的主張に基づくものでした。その意味からは、日本の左派の多くが、自分達の政治的主張の枠外にある言論に対しては無関心であるか、多くの場合敵対的ですらあったという事実は不都合なものです。いわゆる言論の自由をめぐる事案について、平等な情熱を持つことは不可能にしても、あまりに恣意的であったり、二重基準を振りかざしていたりするとすれば説得力を持ち得ないからです。

私は、日本の左右対立について、「弱者認識の奪い合い」という評論を書いたことがあります。戦後日本社会において実際には強者であった左派は、強者でありながら弱者として擬制していたと。ところが、冷戦の崩壊、東アジア情勢の悪化、世代間対立等を遠因として、旧来の左派は本当に少数派になってしまいました。既に大衆の支持を失ってしまっているにも関わらず、仲間意識に基づく甘い情勢判断に基づいて、大衆の反感を買うような企画を行ったのは、そうした勘違いに基づいているのでしょう。今般の企画については、日本における言論の自由を再強化することが目的であったのか、企画を没にされるという形で言論の自由に殉じるヒロイズムが目的なのかは、判然としません。もはや、後者以外の主張はできないので、事後的にその主張を繰り出すことは可能でしょうが。立憲主義の筋論としては、同情心を覚えるものの、大衆に支持されるべき左派運動としては完成しなかったということです。

もちろん、左派の勘違いの裏側には今や強者となった右派勢力がいます。戦後長きにわたって社会の中枢から遠ざけられてきたと感じている右派勢力は、いまや、左派の殲滅戦を決意しているかのようです。私が独自に続けている日韓の国民意識をめぐる調査によれば、韓国に対して親近感を持っている層は今や二割前後しかいません。レーダー照射の問題や、徴用工の問題が、現に外交問題となっている今、今般の慰安婦像のような表現を好意的に受け止める層は8%程度にとどまります。私が言いたいことは、今や強者となった右派勢力が、真に保守主義者足らんとするならば、この1割弱の国民に対して殲滅戦を行ってはならないということ。それは、保守主義の根幹にある寛容であり、国民の一体性を重視する立場です。

公金支出の問題へと帰着させる論点も違うのではないかと思っています。公金の支出は、すべての国民の支持を得られるものだけに向けられるべき、という主張は実行不可能であり、特に正しくもありません。国民の中には防衛費の支出に反発を覚える者もいれば、社会保障費の支出に反感を持つ者もいるのですから。特に、表現をめぐる公金支出をはじめとする、専門性を要する問題においては、短期的な民意に振り回されるべきではないと思っています。

つまり、一度芸術監督を任命した以上は、法的なトラブル等の発生を除いては介入すべきでないということです。公金支出の問題にしたいのであれば、次年度以降は、そのような政治的主張をもつ芸術監督は任命しないという方法で解決するのが筋でしょう。そして、最終的にはそのような芸術監督を任命する政治家が選挙で当選できるかどうかが民意となってきます。

すべての問題を、短期的な民意、わかりやすい民意に従わせようとするのは、民主主義の悪癖であり、最終的には民主主義自体を破壊する可能性を秘めた考え方です。

自由主義、民主主義、立憲主義

今般の問題に核心に迫ろうとするならば、どうしても、自由主義と民主主義と立憲主義の問題に戻っていかざるを得ません。そもそも論を振りかざすと小難しくなってしまうので、極々簡単に説明します。

本来守るべき一番重要な原則は、自由主義です。それぞれの人が、自ら正しいと思うとおりに行動し、そこに生きがいを見出して幸せに生きることです。歴史的にも最初に確立された原則が自由主義です。ただ、自由を強調しすぎると、強者は自由を謳歌できるけれど、弱者には実質的な自由が保証されません。そこで重要になったのが平等という原則であり、個人の平等性に基づく政治制度が民主主義なのです。ところが、民主主義を強調しすぎると多数派の権利は担保されても、少数派の権利は担保されないという現象が生じてしまいます。そこで、重要とされたのが立憲主義に基づく具体的な諸原則なのです。立憲主義の原則には、大原則と呼べるものから、細かいものまでいろいろなものがあります。多くの国に影響を与えた合衆国憲法上は、言論の自由が憲法修正第一条に掲げられた最重要の立憲主義的な原則となっています。

今般の事案をめぐっても、これらの諸原則をめぐって対立と矛盾が生じています。まず、作品の表現者たちが自由に表現したい、現体制に対して政治的な抗議を表明したいという要求があります。もちろん、それらの表現に対しては反対したいという表現も許容されるものです。今般の企画に対しては、多くの国民から圧倒的に多くの抗議が殺到し、民主主義的な原則(≒ここでは単純な多数決原則)に照らして企画が否定されるという状況が生じたのです。それに対して、企画側は言論の自由という立憲主義的原則を盾に抵抗したけれど、持続できなかったということです。そして、企画側が抗しきれなかった大きな理由も、具体的な作品が国民的共感を呼び起こすようなものではなく、民主的な支持も広がらなかったということでしょう。

今般の企画では、河村名古屋市長をはじめとする政治家の抗議もありましたから、権力による自由の制限という構図も成り立ちます。ただ、大村知事の説明を額面通り受け入れるならば、企画に対する最大の力は国民から広く寄せられ、一部で暴力化した圧力であったわけです。これは、古くて新しい問題であると同時に、極めて現代的、21世紀的な課題であると思っています。つまり、現代社会における自由の敵は、多くの場合、政府などの権力側からではなく、大衆の側から生じているという問題です。

グローバル化、情報化、SNSを踏まえた社会的欲望の見える化を踏まえて、大衆の中に存在する集団の間の利害の対立や、暴力的であったり排他的であったりする大衆の欲望が顕在化しているのです。それを覆い隠す形で機能していた、「国民」としてのストーリーが機能しなくなり、国民のストーリーの語り部であったはずのリーダー達も、国民すべてを代表することを諦め、支持者へのアピールに勤しんでいる状況があるのです。

自由主義にとって最大の敵が、民主主義となっている。そして、民主主義の暴力の前に立憲主義への支持はいかにも弱々しいものになってしまっているのではないか、ということです。

エリートの「やせがまん」

今般の問題が、多岐にわたる論点を含んでいることは既に申し上げました。それでも、今この問題が生じている背景を考える際には、何が本質的に変わったのか、何を今語るべきなのかを考えるべきであると思います。本質の本質に着目する姿勢こそが、政治批評の力であると思うからです。私は、問題の本質にはいわゆるエリートの没落があると思っています。社会の中で指導力を発揮することを期待される人々(≒エリート)の「やせがまん」する力の減少です。

今般の問題をめぐってSNS上で交わされている意見、マスコミで展開される意見を拝見するに、言論の自由という立憲主義上の原則が国民の間で広く共有されているとは思えません。そこには、大正デモクラシーの隆盛から100年、戦後の民主的改革から70年以上を経てなお、日本国民の間に立憲主義が血肉となっているかについては相当に疑わしいというちょっとした絶望感があります。

繰り返し強調しますが、特定の施政者の政治的傾向が本質なのではなく、国民の間の立憲主義的信念を問題にしています。河村市長の主張について批判することは容易いけれど、同氏が多数の民意に支えられた存在であることは間違いないのですから。そして、同氏は白昼堂々と立憲主義の原則を曲げながら、民主主義的な報いを受けるとはまったく思っていないし、おそらく受けることもないだろうという現実があるからです。

国民が怒りや、不満を爆発させた時。国民が事なかれ主義に走って少数者の権利をないがしろにしたとき、かつてのエリートは「やせがまん」を試みた。グローバル化と情報化と大衆の欲望の見える化によって、一番変わったのはここなのではないでしょうか。

私は、社会を指導する層がプライドを無くし、リスクを恐れ、短期的な民意と、大衆の欲望で右往左往する社会が行き着く先が明るいとは思いません。正直に申し上げるならば、勝算のある解決策があるとも思わないし、偽りの解に飛びつく姿勢には欺瞞があると思っています。何を大げさなという「常識的な」感覚も大事だけれど、エリートが知的体力を失った世界を直視しなければ、先に進めないのではないかと思うからです。

政治評論が真善美に奉仕するものであるとして、私は真実性をもっとも重視してきました。その姿勢は今後も変わらないけれど、(それが実現できるかどうかとはまた別に)善きこと、美しきことにも目を向けないといけない時代なのかもしれないとも思います。たぶん、そこにしか解決策はないからです。(はてなブログ「山猫日記」初出)