連載・寄稿

2020.04.08 News 連載・寄稿

「いまは戦時」という認識の危うさ

いま、私たちが危機の時代を生きているということに同意しない人はほとんどいないでしょう。しかし、その危機が天から降ってきたものによるのではなくて、人間たちが自ら招き寄せているものであるということに気付いている人はどれだけいるでしょうか。

「アフター・コロナ」=新型コロナウイルス禍以後について語るのはまだまだ早すぎると思う人もいるかもしれません。しかし、多くの対処策や人々の行動は、このウイルス禍がどれだけの影響を社会に残し、どれだけ続くのかを分からずに取られています。その事実に自覚的であったり疑問を呈したりする人はまれです。

「いまは戦時だ」という言説が専門家たちの口から積極的に出てきたのはちょうど4月1日前後のことでしょうか。東京の患者数が増え、志村けんさんが亡くなり、社会の温度が一気に変わったのが春分の日の連休明けの週。小池百合子都知事が「ロックダウン」という聞き慣れぬ海外発の用語を用いて、法治国家の日本では取りえないはずの措置がこの先に待ち受けているかもしれないと示唆します。続いて夜20時にセットされた都知事会見では、何か強い措置が発令されるという観測が出回り、会見が始まってもいないうちに、東京じゅうのスーパーの棚から生鮮食品がいったん消えました。そして、3月末には年度をまたいてすぐ政府の緊急事態宣言とロックダウン措置が取られるというフェイクニュースのチェーンメールが出回ります。どれも、「戦時」に直面しているという認識に基づいた集団心理に他なりません。

翻って、昨日発令された緊急事態宣言は、比較的穏やかな雰囲気の中で行われました。一斉休校措置による失敗の学び、経済対策が出揃うのを待ってからの宣言など、政府にも試行錯誤の跡が窺われます。日本が行っている措置は、移動制限でもロックダウンでもなく、自粛強化を「補償」とは呼ばない「支援金」で乗り越えようとするものです。であるからには、なるべく時間的猶予を与えて予測させ、そのうえで発令するという段取りが最もパニックを呼ばないものです。

この際、小池都知事がなぜ、法治国家を前提とすれば不可能なはずのロックダウンに政治家として言及してしまったのかは措いておきましょう。専門家が出してきたメモにはロックダウンの文字が躍っており、海外のニュースにはロックダウンの模様が報じられていた。感染症の専門家は法律や社会や政治の専門家ではなく、経済の専門家でもない。彼らは彼らの専門知識で正しいとされた処方箋や予測を書き込んだにすぎず、都知事は慌ててその前提を受け入れたにすぎません。間違えれば軌道修正すればよい。

しかし、根っこにある感覚としての「いまは戦時である」という認識がもたらすものは、もっと複雑な政治社会的論点を含んでいます。

自由を返上する国民

戦時の比喩に対して、初めに提起されるべきは、人権や財産権がないがしろにされることへの懸念です。しかし、それに対しては人権よりも命の方が上だと考えがちな科学者による反論が試みられるでしょう。一見、伝染病に打ち勝って命を救うためには法律を軽視しても良い、あるいは経済に破壊的なダメージを及ぼしても致し方ない、というのは正しそうにも聞こえます。しかし、それが戦争に置き換えられたとしたらどうでしょうか。民主国家の軍人は、命を救うためにいざというときには戦争をするのだと教えられています。日頃、自由が侵害されるくらいなら死んだほうがましだ、という主張を繰り返しているはずの人が、案外容易に自由を返上してしまうのが、先ほど申し上げた集団心理です。

なぜ政府は果断な処置ができないのか。法律は阻害要因にばかりなってはいないか。官僚機構の頭の固さに注目が集まり、政治家のリーダーシップを求める声が上がる。

戦争を論じるときだけは政府性悪説に立つ人が、なぜかウイルス禍のときには政府性善説・万能説に立ってしまうという危うさがそこにはあります。法律上何ができないか、が注目される。その一方で、法律を守った結果としてどんな愚かしいことを「しなかったか」については、スポットライトは当たりません。あまりに融通が利かない、と思われるのには理由があるのです。日本は憲法概念として、私権の制限を出来得る限り回避してきたからです。法律は政府に楽をさせるためのものではなく、私権を最大限守ろうとするためのものですから。

日本は創意工夫の進んだ政府でもなければ、効率の良い政府でもありませんが、各国に比べて愚かしいことを比較的しない傾向にある政府であるとは言えるのではないでしょうか。それは、ひとえに法匪とまで言われるほどの官僚機構の頭の固さと、組織としての経路依存性の強さに原因があります。安倍政権が日頃の公文書に対する雑な扱いや人事におけるグリップの強さを忘れて、非常時に古き良き自民党保守に戻るのは、日本にとって良いことでしょう。ただし、昔とは違って行政指導に関する考え方が厳しくなってきた昨今は、罰則はなくともしっかりとした法的根拠を持った要請が必要であるという考え方が主流になってきました。非常時には法律に基づかなくてよいのではなく、非常時も想定した法律が必要だということです。

総動員の戦争

自由を返上したがる国民が集団心理に陥る原因は、不安と恐怖です。肺炎が突如としてみんなの問題になる前までは、戦時であるという認識は広がりませんでした。疫病によって想定される犠牲者数が耐えがたい場合、反作用として人は反射的に動きたくなるのです。それはテロに直面した時の精神性と似ています。同時多発テロで犠牲になった人びとや遺族などの、犠牲の中心にいる人々の反応は悲しみを主体としていました。しかし、そのニュースを我が事として捉えた国民は対テロ戦争を支持し、予備役は志願して軍におしかけ、何かしたいと願ったのです。いわば、くだされてしまったダメージに最も近い人ではなく、その周りの共同体が拒絶反応を示す結果として集団心理が生じるということです。

では、なぜ戦争でもないのに「戦時」という意見が出てくるのでしょうか。通常、先進国が軍事作戦を行いたい時には、戦時などと言いはしません。「平時の戦争」とは国民が大して負担せず、現場の軍だけに犠牲を強いる戦争です。ですから、戦時という言葉が出てきたのは共通の国民的運命を設定して窮乏を共有するためです。専門家が戦時であると言い始めたのは、新型コロナウイルス治療に当たる医療従事者や、検査技師、そしてクラスター対策班が自分たちだけが最前線で戦っていることに対して、総動員を呼び掛けた構図であるということです。

戦時の精神とは、国民が一つの運命を共有しているという感覚です。各自が持ち場で最大限共通の目標に向かって頑張る、資源や物資が枯渇するので計画経済的なものへと移行する、日常的な娯楽は犠牲にし、我慢する。国民が支えるのは兵隊さん。

新型コロナウイルスは命を奪いうる病気なのだからそのアプローチは正しい、と思うでしょうか? しかし、日本の経験に学べば、総動員の戦争が正しいのはほかのすべての活動に価値がない場合です。例えるならば、交渉しても降伏しても国全体が虐殺されるような無慈悲な相手であるので、最後まで戦わない理由がない場合です。総動員の戦争をすれば、他のすべての目的は消え去ります。戦意高揚以外を目的として恋愛小説を書く意味もなければ、美味しいフレンチのコース料理を食べてインスタグラムにアップする意味もありません。人びとの会話や情報は戦争に関するものだけになり、勝てたかどうかだけが関心になる。すでに、私たちの生活にこうした総動員の戦争の雰囲気が押し寄せていることがお分かりでしょうか。そして、それは正しい歓迎すべき事態なのでしょうか。

戦時のミスコミュニケーション

それでも、国民は自宅で待機することしかまだ求められていません。感染者をビニールシートで隔離して車で運ぶのも自治体の職員であるし、看護・治療するのは専門の医療従事者です。もしこれが勝てる闘いであるのならば、他のすべてをあきらめてでも…と思われる方は多いことでしょう。

ほんとうの戦時に見落としてはいけないのは、国民が一丸となって現場の兵隊さんを支える以上、指導者による正しい目標設定が必要となるということです。太平洋戦争が典型ですが、真珠湾攻撃は山本五十六が自分の与えられた任務のなかで最大限合理性があると考えた作戦であり、戦略的には正しいものではありませんでした。本物の戦時には正しい目標に向かって、正しい戦線を選び取らねばならないということです。

現行の政府の目標は、人々の経済的・社会的活動を可能な限り抑制することでウイルスの伝播を止め、医療機関にかかる最大負荷を長期間でならすことで医療崩壊を避けようということでしょう。実際、総理は人びとの接触を7割から8割減らしてほしいという明確な目標を設定しました。これに対して、世論に積極的に発信している感染症の専門家などは、批判から一転して称賛しています。

経済的・社会的封鎖の期間は、現在のところは一カ月と想定されていますが、そこに特段の根拠があるわけではありません。経済的・社会的封鎖政策の弱点は、感染を抑制することが目的であり、その結果、人々が免疫を獲得するプロセスを阻害してしまうことです。

つまり、封鎖を緩めた瞬間、感染の勢いがぶり返し、再び封鎖を余儀なくされる可能性が高いということです。そうやって、数か月のサイクルで封鎖を繰り返している間に、1年から1年半もすればきっとワクチンないし治療薬が開発されるだろうという見通しなのでしょう。封鎖シナリオは、現実的で、悲観的なシナリオに基づいているようでいて、実はとても楽観的なのです。

誤解を恐れずに言えば、民主国家の指導者は、何もしないで10万人死ぬよりは、何かして15万人死ぬ方を選びがちです。英国のジョンソン政権が政策方針を転換したように、そうでなくては知識人やメディアを含めた民意の圧力に耐えきれないからです。経済死が広がっても、新型コロナウイルスに対して何もしなかった、という批判はかわせるのですから。

申し上げたいのは、各国の歴代政府が戦争をやめられなかったのも同じロジックに基づいている、ということです。しかし、その戦争の入り口では本当の犠牲はきちんと把握されなかったのです。イラク戦争を行ったブッシュ政権は、戦争への支持を確実に取り付けたいがために、戦争の経済コスト・人命コスト見積もりをすることを固く内部に禁じました。また、軍の側も本当のコストを告げることを躊躇った。なぜならば、軍が本当に欲しい兵力も予算も政権が与えてくれるはずはなかったから。軍は、イラク戦争をせよ、あるいはアフガニスタン戦争をせよ、というあらかじめ定められた目標に従って、誠実に戦ったのです。アフガニスタン戦争のさなかにオバマ政権に人員増派や追加予算を願ったとき、軍は本当に必要な数字を言わなかった。真のコストが分かってしまえば、政治家はたじろぐからです。政治家は、一カ月耐えてくれ、千人増派してくれ、という専門家の主張を受け入れたくて受け入れます。物事が好転することを信じて。

巷に出回っている楽観論、政府が表向き言っている楽観論は、案外、専門家と政府のこうしたシンプルな心理によって形作られます。私は戦場で戦う現場の兵士に寄り添った研究をしてきました。しかし、そこでの結論は現場の兵士に統治させろ、ということでは全くありませんでした。リーダーこそが真のコストを見据えて正しい決断をしろ、ということだったのです。

新型コロナウイルスにかかる真のコストはどう見積もられるべきでしょう。ウイルスに関する致死率はだいぶ分かってきています。人為的に生み出された経済恐慌による真のコストはまだ誰もわかっていないのです。

(初出「論座」、2020年4月8日脱稿)