連載・寄稿
2019.01.28 News 連載・寄稿
なぜ安倍官邸は双方向から批判されるのか
安倍政権に対する批判の矛先が変わる?
2019年の日本政治を考えるうえで、政権批判のカギとなる概念は「官僚制に対する信頼」「本当に政治主導ができているのか」に移行していくだろうと私は思っています。これまでは、「安倍双強の驕り」「自民党一強」に批判が向いていたのですが、昨年から官庁のずさんな統計、不正などがニュースになり、日本国内の閉そく感と相まって批判の矛先が安倍政権の強靭性そのものを疑う方向性へと転じていくだろうと予測するからです。
なぜ安倍政権批判の方向性が変わるのか。一方では強すぎるリーダーシップを責められ、他方では弱すぎるリーダーシップが責められるなんてことがあるのでしょうか。私がこうした予感を持つ理由は、現在の日本政治は、先進各国の政治と同じ罠にはまっていると感じるからです。現状に対する共通した不満があるなか、政策の方向性が論じられるのではなく、どれだけ民意を取り込んだかが重要なメルクマールになりつつあるということです。
痛みが進んでいるエリート支配
民意が重要となる理由は、エリート支配が傷んでいるからです。代議制民主主義というのは本来エリートの選良による統治を意味していました。しかし、国会で審議ができない状況、決められない状況に陥ると信頼が損なわれ、与野党共に評判を下げるという現象が起こります。そこで、残る行政府が民意の反映から政策まで幅広い責任を託されてしまうと、その過重な荷に耐えられなくなり、双方向から攻められるという事態が生じるのです。
因果関係を逆にした説明はこれまでに存在します。小選挙区制を導入し、政治機構改革を行った結果としての今に注目する説明です。つまり、官邸主導のリーダーシップスタイルが定着し、自民党内の根回しや国会審議が軽視され、結果的に一強多弱や強すぎる官邸の弊害が随所にあらわれているというものです。これらの指摘は正しく現状を捉えていますし、官邸に意思決定の負荷が集中しすぎているという指摘もその通りです。
ただ、この場合、因果関係は双方向で存在するというのがここでの私の主張です。強すぎる官邸が国会や官庁や独立機関を弱くしたという因果関係は否めない。と同時に、時代と共にエリート支配が揺らいだことにより強い官邸が登場したというのもまた真である、ということです。
このうち後者の因果関係は、日本一国が考えを改めたところで、そうそう変わりそうにないトレンドだと思います。そこでの問題の根っこは、課題の複雑化と専門化と同時に、情報化と大衆化が起きているところにあります。
直接民主制的な方法が持つ限界
これほどにまでエリートや専門家が求められている時代はないのに、人びとは彼らへの信頼を失っており、また官僚機構のあり方も十分に複層的な専門的課題を解決できる体制になりえていないからです。結果的に不備ばかりが目立つようになり、官僚機構も強いリーダーや民意を恐れて萎縮します。
その解決策を直接民主制的な要素に求めようとする流れも起きています。しかし、これは非常にコストの高い、エリート政治の良き要素をも潰してしまう方向性であると思っています。なぜならば、国民投票のような制度は、方向性を決めることはできてもその方法論を定めることはできないからです。さらにいえば、方向性を決めることは目的を決めることと同義ではありません。
BREXITを例にとりましょう。離脱に票を投じた人々は、どのような離脱をするのかについても、あるいは離脱の結果としてどのような国家像を目指すのかも決められませんでした。他方で、残留に票を投じた人も、現状維持以外の政策に何ら意思表明することはできなかったのです。直接民主制は、そこでの散発的な決断の結果に一貫性を持たせるためにマンモスのような官僚機構を必要とします。選良による代議制統治が機能しない以上は、そうしたコストがついてくるのです。ましてや、地方分権が進んでいない日本において、多くの課題や意思決定が中央に集中している状態で、直接民主制的に物事を決めたらどうなるか。目を覆わんばかりの悲惨な事態になることは必定です。
エリートを動かすリーダシップを求める人びと
つまり、時代の流れはエリートや専門家を必要としているが、彼らはむしろ大衆からの批判の対象となり説得力を失っているので、人びとは強いリーダーシップを求めるか、あるいは直接民主制的な方向を求めるのだということです。直接民主制的な意思決定は、生活に根差した小さな自治体のなかでの意思決定には適しています。
強いリーダーシップは、国の方向性を国民に訴え浸透させるためには必要です。しかし、現代においては、多数の専門家集団の提示する方法論を十全に理解したうえで、大衆にカリスマ的人気でもって説明を浸透させ、民意が吸い上げられたという満足感を与えるような細やかな配慮にも事欠かないという完全なるスーパーマン(ウーマン)しか人々を満足させられないのです。
どうしてそのようなスーパーマン(ウーマン)幻想が広まってしまったのでしょうか。冷戦が終わって四半世紀。東西対立から脱却して民主主義を広めるとともに、外形的な民主国家のなかに成熟した「市民社会」を創り上げようという知識人の姿勢は、人びとの実感からずいぶんと遠い響きを持つようになりました。テレビやインターネット、SNSで日々交わされる意見対立からも、アーティストが発する言葉からも、あらの目立つ政策過程からも「市民社会」の香りはしません。情報化と大衆化だけではそのような市民社会なるものは形成されなかったからです。
そのかわり頭をもたげてきたのが、強いリーダーに対する期待です。複雑な物事を単純に理解したい、エリート支配の構造に否を突きつけたい。そうした欲望が強いリーダーを生みます。
世界に広がるストロングマンを求める声
各国を見渡しても、ストロングマン支配を求める声は強いものがあります。トランプ大統領、プーチン大統領、エルドアン大統領、そしてフィリピンやブラジルなどでも乱暴で強いリーダーのスタイルがもてはやされています。ただ、ここでいわゆる一般的なストロングマン支配=独裁者的リーダーシップへの批判に終始すると見誤ってしまうことがあります。これらのストロングマンに対抗する野党陣営でもてはやされているのも、ストロングマン(ウーマン)であるということです。
その好例が米国の新人下院議員のオカシオ=コルテスさんでしょう。彼女は、サンダース陣営で頭角を現したSNS時代の寵児です。民主党内のエスタブリッシュメントとも対立し、無知や乱暴さが指摘されていますが、それに全く動じることなくアジテーターとしての才能を十全に発揮しています。そして、リベラルにとってはトランプ大統領が悪を体現するものである以上、彼女はやはり善のイメージを背負うことになるのです。彼女がもしも銃規制などのシングル・イシューの活動家であったならば、歴史に無知であっても何にも責任を問われるいわれはないはずです。しかし、連邦下院議員として米国の政策を動かしていくためには、無知で無謀なままではトランプと変わりないことになってしまう。人びとは陣営さえ変わればころっと同じリーダーシップスタイルに転んでしまうのだということが彼女の巻き起こした旋風によって明らかになったのでした。
乱暴な言説がウケる社会状況を生んだのは
人びとが求めているのはシンプルなことです。ましな賃金、住民に親切な地方政治、学校教育を安くすること、差別の撤廃。治安の確保、景気の拡大、持続可能な社会保障。それに対する解決策は、アプローチが異なるやり方にせよ、各政党が切磋琢磨して立案できるはずです。
しかし、現在米国で左右双方に人気のトランプ大統領もオカシオ=コルテス議員も、十分な専門家集団を後ろに置くことなしに、スローガンだけを訴えている状況です。そして、アイデンティティ・ポリティクスが目立つことによって、現実的な政策論争から却って目がそらされてしまう。まさに乱暴な言説こそが受ける社会状況というものが生まれているのです。
2019年、安倍政権は……
日本に再び問題を置き直してみるとどうでしょうか。直接民主制的なものにせよ、ストロングマン的な欲望にせよ、ポピュリズムが到来する可能性は十分ありますが、まだその波は日本を揺るがすには至っていません。ただし、安倍政権が双方向からの批判に晒されている以上、人びとが求めるものの構造は先進各国とさして変わらないと考えてよいと思います。
日本が取り組むべき課題を見れば、低すぎる最低賃金の是正、「人手不足」と言われる状況への対処、生産性の向上、持続可能な社会保障のための改革、超高齢化時代への対応、安全保障の確保など多岐にわたります。与野党ともに、それぞれの課題は認識しているはずですが、上で繰り返し述べたように、目標だけでなく、それを実現する方法論こそが肝心です。
しかも、野党からは方法論のみならず、包括的な目標設定自体がなかなか出てこない。少なくとも正しい課題設定をし続けている安倍政権が長期安定政権を築いているのは当然です。ただし、政権を支えている官僚機構にも綻びが見える中で、人々が政治全般に抱く期待を官邸がすべて叶えるなどということは不可能なので、今後、安倍政権は数知れぬ向こう傷を負っていくことになるでしょう。こうしたダメージ自体は、長期政権の後半に当然予測される事態であり、いかにレームダック化せずに外交安保の分野や憲法改正において実績を打ち立てていくかが政権にとっての課題だろうと思います。
人びとが安倍政権に対して感じている不満の本質は「飽き足らなさ」である。そうした視点に立てば、安倍政権の延命に効くはずの政治姿勢がむしろ期待を萎ませる効果に繋がることが予測されます。政治的ダメージを避けるために、官僚機構のスキャンダルや不正を「粛々と」処理していく。そうすれば統治の安定と連続性は確保できます。けれども、日本社会は安定だけでは満足できなくなってきているのです。安倍政権が攻めの姿勢に出られる分野が、外交安保や憲法などに限られている以上、そこで相当攻めに出ている姿勢を出さないと、政権は危ういのではないでしょうか。
長期的視点からの三つの提言
最後に、視点を安倍政権よりも長期において、こうした構造がしばらくは変化しないであろうことを前提に、三つの提言をしたいと思います。第一に、国会の機能を向上させるために専門家のサポートを拡充すること、第二に、官僚機構に統計専門家を拡充して省庁横断的に統計データに関わる体制を見直すこと、第三に、活字・ネットメディアが積極的に知識を発信していくことです。
第一、第二の提言は、エリートや専門家に対する信頼を回復するうえでも役立ちますし、そもそも現在の官僚組織が十分に時代の要請に見合ったものになっていないことから必要な改革です。第三の提言については、TVや新聞などまだまだ既存大手メディアが強い日本だからこそ、彼らが積極的にネットで発信していくことに意味があるでしょう。いずれは日本も米国のような分極化と乱立の時代に突入するのかもしれませんが、少なくとも専門知のための空間を確保しておくことが重要です。現代においては、専門知の空間を無くさないためにこそ、発信とそのあり様が重要視されるのです。
(初出「論座」、2019年1月28日脱稿)