カバノー新最高裁判事をめぐるスキャンダルから学べること
引退を表明したアンソニー・ケネディ氏の後任の米国連邦最高裁判事としてブレット・カバノー氏(53歳)が承認されました。ケネディ氏は保守派ではありましたが、どちらかというと穏健派。保守とリベラルで意見が割れる際にはリベラル側につくこともあり、多数決の帰趨を左右するような浮動票の役割を果たしていました。反対に、カバノー氏はバリバリの右派です。今回の人事で、最高裁は保守派多数が決定づけられました。
性的暴行疑惑
今回カバノー氏に関しては、36年前の事件の告発がニュースとしてもちきりになりました。ある女性教授がはじめは匿名で、その後は顔を出して証言をして彼の暴行を告発したのです。何せずいぶん昔のことですから、証拠立てをすることはほぼ不可能です。しかし、最高裁判事の任命はなんとしても避けたい、というのが女性教授の思いだったようです。
メディアと政界はこの問題を連日激しく論じてきました。当然、過去の彼の様々な側面が暴き出されます。曰く、青年期のカバノー氏は日頃から女性をモノとして見る言動が多く、パーティーで酒やドラッグを用いて女性の意識を混濁させ、性暴力を行うなどの行為に傍観あるいは加わっていたと。
女性教授の証言にはかなりの信ぴょう性を感じましたが、そのような私の主観は問題ではありません。特筆すべきは、全米が民主と共和に真っ二つに割れて、この問題の真偽でポジション取りをしていることです。要するに、このスキャンダルは極めて政治化しているのです。民主党はありとあらゆる手段で総攻撃を仕掛ける一方、共和党の男性陣は被害女性の渾身の訴えにもかかわらず「いわれなき濡れ衣」だと非難し返しました。
公聴会を見ると、カバノー氏の態度はあまりに極端で高圧的で、感情の抑制ができない人なのではないかという不安を抱かせるほどのものでした。それだけでも判事失格としてよいほどの醜態なのですが、ミッチ・マコネルしかり、リンゼイ・グラハムしかり、共和党のボスたちは、彼を降ろすという選択肢をまるで考慮しなかったのです。時にトランプを批判してきた彼らが一枚岩となって民主党と相対したのはなぜでしょうか。
問題の政治化ははじめから起きていた
カバノー氏の指名はすでに初期から政治的なにおいが付きまとっていました。彼は2000年の大統領選挙の際、フロリダ州の再集計をめぐる問題で共和党のブッシュ(子)大統領に貢献しています。そののち、ブッシュ政権のもとで5年間も勤務。2006年にはブッシュ(子)元大統領により高裁判事に任命されました。このことからも分かるように、カバノー氏は判事として政治から距離を置くタイプではまるでありませんでした。
米国では、憲法解釈において進歩の概念をとりがちなリベラルと、原文に忠実に解釈を行おうとする保守派が対峙しています。カバノー氏は公聴会の証言で自らの宗教観や価値観とは関係なく憲法の定めるところにのみ従って判断を行うと証言しましたが、本当は政府の介入に関してダブル・スタンダードを取る保守派の際たるものです。環境保護庁の行う環境規制に敵対的である一方、政府が個人の判断であるところの中絶を規制すべきでないとする立場に敵対的です。実際、カバノー氏は不法入国した17歳の少女の人工妊娠中絶を認める高裁判決の際、反対票を投じています。
米国連邦最高裁レベルで人工妊娠中絶の権利を認めた「ロー対ウェイド」事件の判決(1973年)は、これまで政治的左右の立場に関わらず大勢において支持されてきました。上院での公聴会第二日目で質問を受けたカバノー氏も、判決を覆すかどうかは明言を避けました。しかし、判決は今回の任命によって覆される可能性があります。そして共和党は十分にそれを意図してカバノー氏を支持しているのです。
ロー対ウェイド判決
ここで簡単にロー対ウェイド事件について振り返っておきましょう。1970年、テキサス州に住むジェーン・ローさん(仮名)がレイプで妊娠しました。彼女は加害者の子を産むつもりはなく、中絶を望みます。しかし、州法では母体、つまりジェーンさんの命が危険にさらされている場合を除き中絶ができないという定めがありました。しかし、お金のないジェーンさんは州を移動して中絶が合法な地域の病院で治療を受けることができませんでした。そこで、ジェーンさんは、女性の中絶する権利は合衆国憲法修正第14条で保障されているとして提訴したのです。1973年、最高裁がその訴えを認めたのがロー対ウェイド事件判決です。以来、この判決は45年間覆されることなく全米の女性の権利を保障してきました。従って、保守的な州であっても独自に中絶を禁じる州法を制定することはできません。中央集権的な日本では理解しがたいでしょうが、米国における州は高い自律性を持っています。それでも、同じ合衆国である以上は、憲法違反の法律を制定することはできないのです。
しかし、カバノー氏を守り切った保守派が彼に期待しているのは、社会的価値観のリベラル化の流れを逆行させ、中絶に関しては時計の針を半世紀ほど前に戻すことです。実際、政治的キャリアを積んできたカバノー氏の立場は、極めて政治的なものになるだろうと思われます。世間への影響ということから言えば、仮にロー対ウェイド判決が覆されても、州法で中絶を容認し続けることはできます。ただし、保守的な州における女性の中絶の権利は、はく奪される公算が高いと言えます。
大統領弾劾の可能性をめぐって
政治性は中絶をめぐる論点だけではありません。カバノー氏は現在、大統領の在任中は刑事責任や民事責任を問うべきではないという立場を取っています。しかし、氏は、クリントン政権のときには弾劾側に立って仕事をし、1998年の論文では大統領は在任中に起訴されるべきか否かについては論争の対象であると論文を書いているのです。にもかかわらず、その後、大統領は職にあるときに起訴されるべきではないというように意見を変えた。その理由は、大統領があまりに時間を取られ、職務の執行の妨げになるから。こうした党派的な立場を民主党は攻撃しています。ムラー特別検察官の今後の働き如何では、トランプ大統領にとっては訴追の危険性も高まります。そんな中、大統領は心強い味方を選んだともとられかねない。
今回、性的暴行疑惑でリベラルからの総攻撃を浴び、さらし者になったカバノー氏は、ますますリベラルに対する憎しみを深め、さらに強硬な保守派として牙をむくでしょう。
36年前の犯罪で裁くことの意味はあるのか
公聴会での態度に窺えるように、カバノー氏が最高裁判事にふさわしい人格を持っているとは言えません。しかし、同時に36年前の証拠なき行為で一人の人の人生を台無しにしてよいのか、という問題は別途あります。実際、こうした行為をまったくしたことがない人、女性に無理やり迫ったこともなければ、お酒をたくさん飲ませて意識を混濁させた上であわよくば性行為に持ち込もう、あるいは触ろうとした経験がまるでない人はどれだけいるのか、という問題があります。社会の進歩とともに、年長世代の再教育は明らかに必要ですが、被害者の証言だけで最高裁判事の任命を覆すことができるという前例を作るのは至極危険です。
ただし、中絶をめぐるカバノー氏の立場と今回のスキャンダルは、別個なようで実は繋がっています。プレデター的行動をとり、女性を傷つける男性は、必ずしも連続殺人犯でもなく、ときに社会的に高い地位を有し、中絶への反対やキリスト教教育の推進など社会的な倫理観を打ち出したりしていることが少なくない。米国に限らずですが、政治的にはリベラルを自任する政治家にもそのような人間は少なからずいます。生命倫理を重視した結果、女性の権利を奪おうとする人がまさに中絶の原因たる同意なき性行為をしたり避妊をしないなどの行動に出ていた過去があるのならば、まさに「言う資格がない」からです。
カバノー氏批判の基礎にあるのは、そのような人間が中絶をめぐっては倫理的原理主義を貫こうとしていることへの違和感であるというところを押さえておくべきでしょう。
なぜ中絶問題は政治化するのか
なぜ人様の中絶にそこまで関わろうとするのか、という意見もあるでしょう。米国では女性の権利として中絶問題を捉え、自由を些かもゆるがせにしないプロ・チョイス派と、女性の権利には目もくれず胎児の生命を守ろうとするプロ・ライフ派が対峙しています。この問題は両派にとってイデオロギーと宗教の問題です。
こうした状況を指して、米国では中絶容認派が多数を占めるのに政治家が論点化するという意見をよく目にしますが、そうした世論調査の精査には注意が必要です。2018年5月の米ギャラップ社の世論調査では、中絶はいついかなる場合にも合法であるべきと考える人が29%、特定の場合においてのみ合法であるべきと考える人が50%、いついかなる場合にも非合法であるべきと考える人が18%でした。多少の増減はあれ、実は1970年代からそれほど変わっていません。そして、特定の場合においてのみ合法であるべきとする人の内訳をみると、まれなケースにのみ(おそらくレイプ被害や母体保護の観点)中絶を認めてよいとする人の割合の方が多い。つまり、中絶を完全に違法化すべきとする人と、稀な事例においてのみ認める人を足し合わせると、国民の過半数(53%)に達してしまうのです。その背景には宗教観も影響しつつ、やはり命を重要視する発想があるわけです。自分がリベラルであることを示すために、ただ「中絶賛成」と言うのはたやすいことです。ただし、ひとたび産んでみれば、赤ちゃんは週数が足りなくても十分に「人間」であり尊厳を持っていることが分かります。私自身、長女を産んでみなければわからなかったことでした。
リベラルの中には、命を大事にしながらやむを得ない判断として中絶を容認する人がいます。たとえばヒラリー・クリントン。彼女は中絶の権利を容認しつつ、明らかに望ましくないこととして認識し、なるべく中絶を減らすべく活動を行ってきました。その努力には頭が下がります。
もしも中絶を認めなければ、危険で不衛生な違法中絶や出産が横行するでしょう。保守派は、女性が抑圧された歴史があり、自分の身体さえ自由にできてこなかったことに対する想像力が必要です。置かれた立場が違えばどうか。日頃は中絶に反対でも、いざ自分や自分の娘の身に特定の事態が降りかかった場合、多くの人は主義主張を曲げるものです。イデオロギー闘争はそんな想像力の芽さえ摘んでしまいがちです。
対岸の火事ではない
さて、日本のメディアはとかく中絶問題を「米国の宗教」由来のものにしがちです。しかし、日本とて、中絶を望ましいと捉える社会的通念や制度があるわけではありません。日本は、全国一律で上からの「温情主義」的な中絶容認策をとっています。日本は母体保護と胎児の権利をバランスさせており、レイプ被害の場合は中絶が可能ですし、他の望まない妊娠の場合は、健康上、経済上の理由などから認められています。ただし、相手の男性の署名での同意を必要とする定めがあるのが特徴です。
実際の現場はどうかと言えば、知識の不足や、避妊具としてコンドームより確実なピルに対するアクセスが不足していることなどにより、ほんの子供である若年女性による中絶が後を絶ちません。また多くの病院では女性の身体に負担の大きい前時代的な手術方法が主流を占めており、痛みを与えず母体をなるべく傷つけないようにする配慮はありません。そのうえ、それでも多くの男性が避妊しない傾向にあります。
米国は中絶をめぐる政治的論点が存在する特異な国なのだ、ではなくて、日本の女性は戦って守ってくれる人を持たない、というのが正しい認識なのです。
先だって、高校生の妊娠をめぐって中退を勧める学校に文科省が指導したニュースが出た時も、避妊や中絶をめぐる論点を取り上げた地上波はほぼありませんでした。どうやって中高生の人工妊娠中絶をなくすかという議論や取り組みを、左右両極が思い思いに展開する米国とは違って、日本では「道を踏み外した」女性はそれが彼女のせいでなかったのであってもひっそりと忘れられていくのです。
米国の経験は私たちに大事なことを教えてくれます。それは、命は大事だし、自由も大事だけれど、そのどちらかの原則論だけを振りかざすのでは具体的な問題解決にならないということ。中絶をなくすには、望まぬ妊娠をまずなくすことです。そのためには、カップルや夫婦間でも同意なきセックスはだめだということを認知させること、避妊用のピルを普及させ、保険適用すること、正しい性に関する知識を若年層に提供することに尽きます。そして、やむなく中絶する場合には、女性の肉体的損傷や痛みを最小限にする手術を、医院単位ではなく全国的に導入すべきです。
おそらく、それでも保守派に自己責任論を展開する人は出てくるでしょう。しかし、命に関心が薄い保守派などというものは、早晩絶滅せざるを得ないと私は思います。それは、リベラルの一部にみられる単なる「私の自由」の主張と同じものでしかないから。対岸の火事の見物人になるのではなく、本当に私たちの社会をこそ、見つめ直す機会とすべきなのではないでしょうか。(はてなブログ「山猫日記」初出)