連載・寄稿
2020.12.10 News 連載・寄稿
ショーケースのなかの子ども
エアポケットのような時間。マスク。人との距離。朝から晩まで恐怖を煽るテレビ。子どもたちがこの一年間におかれた環境は、私たちがなかなか経験することのないものでした。
親としての私は経営者ゆえの苦労をそれなりに抱えながら、どうしたら子どもにしわ寄せのいかない生活ができるだろうかと考えていました。そこで、私もエアポケットに一緒に入ることにしたのです。子どもたちを自分の会社に集め、まるでチャーリーのチョコレート工場のように遊びの世界を作りました。
来る日も来る日も、屋台ごっこをしました。祭りの法被やゴムプール、水風船、キラキラしたバングル、綿あめ作り。祭りに飽きたら、明るい吹き抜けのガラス窓のそばで日がな一日猫と遊ぶ。朝はお勉強もする。
キャンプ山猫と名付けたこの「即席学童保育」を見に、お菓子や大盛りのイチゴを差し入れに来てくれる大人たち。けれども、子どもたちはみなこれが「こどものくに」というショーケースの中にあるものなのだと分かっていたように思います。陽気にはしゃぐ子ども。昼ごはんの最中に泣き出す子ども。さみしくて泣き出した子を抱っこして揺すりながら、私も出口のない非日常を抱えていました。
あらためて思うのは、子どもの運命は親によって大きく左右されるということ。「親」は生まれ持った財産の多寡よりもっと大事な格差です。生まれによる不平等をなくそうという人は、ほとんどの場合、お金の差に着目します。もちろん、日本よりもずっと社会福祉の程度が低く教育レベルが低い国では、収入がないことイコール飢えること、教育を受ける機会を奪われることだったりしますから間違ってはいないのですが、一番大きな格差は親の愛情でしょう。
その観点から言えば、例えば、いままでにない長い期間、社会や学校の目から隠された子たちが、いったいどういう生活を送っているのか皆目見当もつかないことを、もっと恐れるべきだったのではないでしょうか。
親の責任、という言葉は独り歩きしがちです。子供を産んだ以上、手間暇をかけて育てるのが親の責任であることはその通りなのですが、それは子に対する責任であって、行政に対する責任ではありません。行政は、子どもの安全と学びに責任を負っています。
その責任が、どうも萎縮や事なかれ主義に流れてはいないだろうか、ということを今年は深く考えさせられました。散歩に出かけた先で、公園の遊具がテープでぐるぐる巻きになっている光景や、再開した学校の様子を奉じる番組で、子どもたちがマスクにフェイスガードをダブルでつけている光景目にしたとき。
野山を駆け回る。花の匂いをかぐ。虫を捕まえる。そんな当たり前の光景が戻ってきてほしいとただ願うだけでなくて、ショーケースに入れられた子どもたちの今後を、しっかりと責任をもって見ていかなければならないのではないか。そんな重たい課題を、大人である私たちは抱えています。
(初等教育研究会『教育研究』令和3年3月号(令和3年2月10日刊)“風紋”寄稿、2020年12月10日脱稿)