連載・寄稿

2018.05.28 News 連載・寄稿

女性の地位が真に向上するとき

超党派が推進した「政治分野における男女共同参画推進法」(候補者男女均等法)が成立しました。日本で女性の議員を増やそうとする法律ができたのは画期的なことです。

全会一致で可決されたという背景を見れば、男女が平等であり、政治家も男女同数に近づけるべきだという大義が、政治の左右のスペクトラムを横断して支持を得たということができます。そこで、以下では女性の政治家が増えたあとはどのような社会になっていくことを意味するのか、を考えて行きたいと思います。

市川房枝さんという人

女性と政治の問題を語るうえで外せない先人として、市川房枝さんという人がいます。戦前から女性の参政権や権利拡大のために戦い続けた人でした。彼女は、多くの女性が関心を持つけれども男性エリートに看過されがちな課題、例えば身の回りの生活に関わることや、危険な労働条件などについて議論を提起し、特権層の汚職に批判的でした。もちろん、市川房枝さんの人生にも負の側面はあります。彼女も他の日本の政治家や言論人と同じように、戦争に協力したからです。軍国主義にシンパシーを寄せていたと受け止められかねない言動がありました。けれども、市川さんが戦後、公職追放にあったのは、彼女が特別に国粋主義的だったからではなくて、女性として初めて影響力のある公人たりえたからです。つまり、彼女は政治権力さえ握っていなかったけれども、個人として、真にパワフルなリーダーであったわけです。

戦後、市川房枝さんは、婦人参政権の生みの親として、男女差別を色濃く残した保守と戦い続ける人びとの象徴的存在となります。彼女は戦後、男女平等だけでなく、より平和を強く求める方向に舵を切り、平等と平和が背中合わせのものであることを主張しました。それはおそらく、実感に基づくものでした。戦後、GHQが、彼女が今まで戦い勝ち取ろうとしてきた男女平等の諸制度を速やかに日本に導入し、平和な戦後という時代の中で日本女性の地位が向上していったからです。

けれども、歴史的な現実がどうであったかといえば、各国で民主化が完成し、男女の普通選挙が行われるようになったのは、第一次世界大戦および第二次世界大戦における国民の総動員を通じてでした。国民は戦争に動員され、参加することを通じて、政府から見て無視できない存在へと変化していったからです。女性の戦時動員も、女性の権利を結果的に拡大することになったわけです。同様に、所得格差が大幅に是正されたのも第二次大戦とその後の復員に伴う再配分を通じてでした。市川さんの大政翼賛会支持と女性の地位向上運動は、グローバルに見ても、矛盾するものではなかったわけです。

市川房枝さんのたどった運命に思いを馳せると、そこに一つの教訓が浮かび上がります。男女平等運動というものが必ずしも一つの政党や陣営に属するものではないということです。女性は本来多様です。市川さんの時代には、女性は政治集会を禁止されており、婚姻や性愛をめぐる権利も平等ではなかった。人口の半分を占める人々が残りの半分に従属していたわけです。男女差別というのは、それこそ神道連盟から労働組合にいたるまで幅広く存在している左右を横断する問題だったのです。

もしも、政治的な左右対立、あるいは帝国議会における政友会と民政党のような二大政党の対立を「表の戦い」だとすれば、フェミニズムをめぐる戦いは「裏の戦い」です。表の戦いにおいて、女性がどのような立場をとるのかは自明とは言えないわけです。

女性の地位向上は左右を横断した論点になって初めて成功する

日本では、女性の地位向上を訴える政治家はマージナルな存在であり、非メインストリームというイメージがどうしても強い。しかし、市川さんのように汚職に対して厳しい態度をとり、人びとの生活水準を守り、女性や子供の待遇を気にかけることは、弱者を代表する者の傾向でもありますが、同時に、国家やコミュニティを重視するものの特徴でもありえます。官僚と政治家の綱引きで言えば、官僚の肩を持ち、成長と分配では分配の方を気にする勢力と言ってもよいでしょう。

日本では、自民党が広く成長と分配双方の民意を取り込んだため、社民勢力は大きくなれませんでしたが、ヨーロッパでは、この立場が大きな勢力を形作った国が多数存在します。社民勢力は本来、メインストリームの片一方を担いうる立場であったということです。そこでは、日本における社民主義の女性政治家が語るような、型通りの「国家権力と戦う」というイメージとは対極の、「大きな政府」を実現する権力の側に回る政党が存在するわけです。

さらに、フェミニズムが進んだ国では、ノルウェーのように男女平等主義をとことん貫く政治文化が生まれました。そのような国では、右派さえもが男女平等の概念を積極的に支持しています。現に、ノルウェーの中道右派連立政権に参加している進歩党は、男女平等主義を貫く、経済的にはリバタリアンの政党であり、ブルカやニカブに反対するなど移民の独自文化に対して敵対的な政策を推進しています。ノルウェーは、男女平等な徴兵制を敷いている国としても有名です。

つまり、当たり前のことですが、男女平等が進めば進むほど、表の戦いとフェミニズムの戦いの関係性が薄れてくるわけです。今でこそ、「結婚したら子供を三人産んでほしい」という発言をした国会議員が自民党や安倍政権の象徴のように叩かれていますが、この論点は本来、保守も革新も関係ありません。野田聖子大臣が即座に「そう言って子供が増えることはない」と批判したように、保守からも批判が飛んでくるようになれば、真に女性の地位向上が進み始めたのだということができるでしょう。

日本のフェミニズムが広がらなかった構造

これまで、日本におけるもっとも実力派の女性政治家と言えば、やっぱり土井たか子さんでした。それに連なるのが福島瑞穂さん、辻元清美さんといった社民勢力の政治家でした。とはいえ、辻元さんが自党を離れて民主党(当時)に参加していった過程を見れば、必ずしも表のイデオロギーと裏の論点がぴったりと一致するわけではないことが見て取れるでしょう。しかし、日本の保守政党およびそれを支持する保守地盤は、女性がいそいそとお茶くみをし、男性がどっかりと床の間を背に座っているという文化を連綿と存続させてきました。ですから、フェミニストたちは表の論点では左へ左へと誘導されていったわけです。「女が偉そうに」「黙ってろ」と保守に言われる過程を通じ、あるいは保守的な女性たちが身を慎み、三歩下がって夫の跡を歩いていくのを目の当たりにして、あるいは自分たちの論点を応援してくれず、男性側におもねる発言を繰り返す女性の保守論客を多数目にすることで、一定の単純なパターン認識が定着してしまったのです。それは、女性の権利は左派の論点であるという認識でした。そのような単純な世界観が流布したのは、女性の地位向上にとっても、日本にとっても、不幸なことでした。

日本におけるフェミニズムの分布の偏りは、誰がフェミニズムを支持してくれるのか、ということで支持者に頼らざるを得ない政治家の、小さな決断の積み重ねである可能性があると私は思っています。実際、保守はこれ、革新はこれ、といった「定食メニュー」を受け入れなくてもやってこられたのは、真に実力がある者か、守られた身分の人々に限られます。

現在、女性の論点で前面に立とうとされている野田聖子大臣は、世襲の、地方の強い地盤を受け継いで選出されており、守られている。キャラクターも相まって強い国民的人気を得つつあることで初めて、そのような保守陣営の雰囲気を踏み越えた発言ができるわけです。

つまり、真の実力者が女性に増えれば増えるほど、特殊利益や支持層に気兼ねして女性の足を引っ張る発言もなくなるということです。とすれば、フェミニズムを進めるための教訓は、おのずと明らかでしょう。むしろ保守政党こそ女性の候補者の数を増やし、また、女性政治家の育成に力を入れることです。しかも、それはかつてとは異なり、保守派に追い風となる政治効果を生むのです。

安倍政権は支持基盤の保守的な社会的イデオロギーにもかかわらず、女性の活躍を掲げることで、女性政策をめぐる分断によって失点することがないように舵を切りました。今回超党派で女性の政治家を増やそうと法案に尽力した中川議員も、他の思想では右に分類される政治家です。

ただし、女性の政治家を増やし、フェミニズムが受け入れられる領域が拡大することは、必ずしもリベラルな社会を創ることを保証はしません。

女性のリーダーシップのパターン

これまで、日本の女性政治家の選出パターンは三通りほどありました。ひとつは、総理の子供のような「王朝の継承者」、二つめは、看護師などの業界団体や市民運動のような組織勢力からの選出です。三つめに、女性という属性を強調し、個人のキャラクターを生かして出馬する「ピン」の層がだんだんと増えてきました。

上で書いたように、「ピン」で活動する女性は支持層を形成し、それに頼る過程で左右を問わず「定食メニュー」を受け入れる方向に圧力が働きます。常に目立たなければならない、運動を行ってくれるコアな支持層を離してはならない、そういった重圧のせいで、どんどん本人の当初の選好を超えてイデオロギー化しやすいのです。すると、本来はフェミニズムに一番関心があった人が、経済政策や安保政策で左の「立場」を取らざるを得なくなる。逆に、本来経済政策において保守政党を支持した人が、己の意思を曲げて反フェミニズム的言説を行うようになるという不幸が生じるのです。

女性のリーダーが、これまで政界以外にいなかったわけでは決してありません。多くの尊敬される女性リーダーは、経済界や学界、官界で活躍されてきました。ただし、彼女たちはプロフェッショナリズムを貫き、自らの専門分野外のところでは一切公的な発言を行わず、世論形成に向けた働きかけは行わないという姿勢をとってきました。プロ意識ゆえに、思想面でオーバーリーチせず、かつゼネラリストとしては発言しないという決断をしたわけです。これは、多くの男性リーダーのふるまいとは対照的です。

彼女たちは、火の粉を被る立場にはありませんし、そうした覚悟も実際はないでしょう。彼女たちの多くは内心はリベラルだけれども、男性社会に適応することで自らの身を守ってきたからです。彼女たちは常に少数者であったがために、男性よりもさらにプロ意識を保ち、慎重であることを選ばざるを得なかったと考えることもできます。女性が増えれば、ものを言いやすくなるのは自明の理です。

没個性からの脱却

女性が増えることの効果として一つ、例を挙げましょう。女性の政治家や論客の多くは、ここぞという一番の勝負所で白スーツを着る人が多い。蓮舫さんが一番有名でしょうが、小池百合子さんも、片山さつきさんも、三原じゅん子さんも、丸川珠代さんも、そうです。実は、多くの女性のキャスターもそうなのです。選挙特番などのここ一番では、彼女たちは白の衣装を選びたがります。白はダークスーツの男性陣の中でひときわ目立つ色だからです。けれども、選挙特番でもし女性が三人いて、みな白い色だったなら、特別感がまるでありません。つまり、彼女たちの衣装選びは、あくまでも少数者として存在することを前提にしているわけです。

しかし、女性が半数を占める国会で、みなが白い色のスーツであれば、それはまるで個性がないものとして映ることでしょう。気づかずに「きれいな女性」という属性の型にはまってきた呪縛がそこでいったん解けるはずです。

女性が増えれば増えるほど、セクシズムに囚われない候補も出てきやすくなることでしょう。けれども、完全にセクシズムがなくなる社会が訪れるとも言えません。各国を見ても、政治指導者の多くはかなりルックスがよく、外見が厳然とものをいうことは確かです。リーダーというのは見目麗しいものだという常識は、あえて口にこそされませんが、多くの国の現実ではあります。しかし、外見を利用していると非難されるのは決まって女性の候補です。

誰も、クリントン大統領に、あるいはオバマ大統領に、格好いい外見を誇っているとか、男らしいイメージを利用して、仕立ての良いスーツを着、あえて赤と紺のストライプのネクタイを着用して異性を挑発したなどと真面目に論評はしません。しかし、女性は決まってそうした批判に晒されるのです。なぜピンクなのか、花柄なのか、髪型はアップならアップで手間をかけたと言われ、ダウンスタイルでも髪が長いと批判されます。果てしなく揶揄され、非難され続けるのです。イヴァンカ・トランプさんのファッションが批判されたのも象徴的でした。フェミニストが強いアメリカでさえ、好きなワンピースを着ることが真剣な批判の対象となる、ということなのです。

つまり、現状、目立つ女性に向けられている批判の多くは、真剣に男性に向けられることのないものばかりなのです。

人間社会において、パワー(=権力)はセクシズムを伴います。したがって、セクハラも、そのうち男女双方からなされるようになるでしょうし、性的緊張感が職場から消えることも多分ありません。そうなってみれば、福田次官のようにあまりにひどい下品な発言はさておき、個人の主観だけでいやだと感じたこと(例えば髪切ったね、とか結婚してるの?とか)で人を法的に裁けないこともだんだんと分かってくることでしょう。

希望は、男女の力が均衡することで、自然と、一方的な野放しの発言がだめなことであったという認識が広がることにあります。そうした上に立つ者のふるまい、他者への思いやりや平等意識は、本来、初等教育や中等教育で教えていかなければいけないことです。

個人の自由、性的なものも含めた自由。それは、女性の問題であるようでいて、本当はみんなの問題だからです。

まとめ

超党派の取り組みにより、男女の候補者の均等という考え方を導入したことで、日本女性の地位はいっそう向上することでしょう。しかし、それはこの法律によって担保されるというわけではありません。ひとえに、この法律が全会一致で可決されるほど男女平等の考え方が保守政党にも浸透するにいたったことが大きいのです。全世界におけるMeToo運動の広がりから、日本とて決して切り離されているわけではありません。21世紀は女性の世紀と言われます。何せ、人口の半分を占める人々が抑圧されてきたわけですから。もはやそうした一方の性に抑圧的な社会慣習に持続可能性はないのです。そして、保守政党にとっては、男女平等の論点を自らが取り込むことが、女性の世紀においてはもっとも合理的な変節であるということができるでしょう。

女性の地位向上により、他の論点にいたるまで完全にリベラルな社会が出現してくれるというわけではない、と書きました。しかし、それはしごく当たり前のことなのです。女性がフェミニズムの論点から解放されてはじめて、本当の「国民的」な議論が始まるからです。

(初出「論座」、2018年5月28日脱稿)