連載・寄稿
2022.07.12 News 連載・寄稿
安倍元総理暗殺と2022参院選
動揺する社会
2022年の参議院選挙がかくも歴史に残る選挙になるとは誰も思わなかっただろう。安倍元総理が容疑者手製の銃によって暗殺されて、その日のうちに亡くなるという未曽有の事件が起き、当初あまり盛り上がらずパッとしなかったはずの参院選を重く歴史に刻むことになった。投開票日の二日前に起きたこの事件をどう表現してよいかわからないまま、最後まで暗鬱とした気分は多くの陣営に漂っていた。
メディアではさまざまな狼狽が表現された。ある識者は、凶弾に撃たれ斃れこんだ安倍さんの姿を指して、「政治家の宿業」という言葉が思い浮かんだとした。ある政治家は、長期政権の弊害と名指し、非難の矛先を自公連立政権に向けた。ある作家は、これまでメディアが安倍さんを悪者として描き、必要以上に貶めてきたことこそに原因を求めた。これらの発言に漲っているものは、悲しみに覆われるべき時にも対立を余儀なくされる人間のサガである。それとともに、左右両陣営に共通する「安倍依存」を表すものだったと言えるだろう。こうした発言の数々は、倚りかかるべき存在が忽然と、しかも暴力的に消えてしまったことに対するフラストレーションの発露だったと私は見ている。
メディアや政界では、真相究明前にも関わらずちらほらと因果関係を特定するような動きが広がっている。例えば、福島瑞穂社民党党首は私が司会を務めるニコ生選挙特番で、暴力は許されないと前置きしたうえで、「統一教会」と自民党や安倍さんとの関りを調査すべきだと言った。もしも「統一教会」が自民党に影響力を持っているのであれば、それが自民党の男女差別的な政策の原因になっているかもしれないからと。犯人は女性の権利などに言及してはいないし、事件と結び付けてこのような主張を展開することは、犯人の殺害動機に理を認めることになりかねない。司会の役割として再三発言の軌道修正を促したが、徒労に終わった。「安倍さんが死に至った原因」として「安倍さんの何がそれにあたると思うか」という質問を投げてくる週刊誌もあった。
不条理への抵抗
われわれが死に至る要因はただひとつ、われわれがこの世に生を享けたからだ。生を享けたからには、どんな形であれ死に至る。安倍さんは死に場所を探していたわけではない。奈良に赴き、激戦区となっていた京都入りを前に、いつも通り行動していただけだ。そこへひとりの男が彼めがけて銃を撃った。一般的に、会ったこともない人を殺すのは、殺人そのものに快楽を見出す犯罪か、あるいはテロでしかない。テロ、というのはグローバルには狭い意味での政治的意図にとどまらず、社会的意図を伴う殺害を広く指す言葉だ。命を奪うという究極の恐怖を実現することで、自我を満たそうとする行為だからだ。その意味で、加害者に殺人が犯罪であることを認識する判断能力がある限り、陰謀論や誤情報に毒されていたことは免責を意味しない。
犯人がどのような男であろうと、安倍さんの立場から見れば、この犯罪は完全なる不条理である。安倍さんを殺した犯人に「合理的な理由」を求めても、そんなものなどないかもしれない。歴史上多くの著名人が暗殺されてきたが、その多くは陰謀論を信じたり、個人的な不幸を有名人に転嫁することで起きた。仮に多くの人の願望や憧れや妬みが投影されることが有名人たることの宿業なのだとすれば、それは幸運なことに暗殺されないでいるすべての有名人に当てはまる。
今回の事件を受けた人々の動揺に随伴する情念は、不条理を不条理そのものとして捉えられない人間の弱さである。日本にたびたび表出するこの「因果応報」的言説は、不条理に対するもっとも大衆的な反応なのである。反対に、「民主主義に対する挑戦」として積極的に政治的テロ行為に位置づけようとする態度も、不条理に過剰な意味を見出そうとする点で背中合わせになっている可能性がある。もちろん、多少なりともそういった文脈を事件の解釈に入れ込むことで、人々が党派の違いを超えて協力できるならば、それはそれで意味ある表現なのかもしれない。結果的に、安倍さんは民主主義の根幹をなす国政選挙の応援演説中だったからだ。衆人環視の中の元総理への発砲が国家を愚弄する行為にあたることも確かだ。しかし、事実が明らかにならないのに、「民主主義に対する挑戦」が事件の本質をあらわしていると断言することはできない。
惻隠の情は我が事化ではない
不条理は、それを経験し飲み込んだ者にしか、なかなかそのままに捉えることはできない。彼が亡くなっても選挙戦を続けるのは、われわれがそれでも生きてゆかねばならないからで、それでも治安を維持し、統治していかなければならないからだ。安倍さんの不条理な死が仮に「民主主義の真の意味」を教えてくれたのだとすれば、そんなか弱い民主的精神であってよいのだろうか。それに、ほとんどの場合、選挙は命の危険を感じずに行われている。そもそもあなたは標的になどなっていないし、部外者が命は平等などといって即座に直近の他の死と比較して相対化しようとするのも暴力である。
圧倒的な不条理に苦しまないで済んできた人は幸いである。そういう人ほど、直視するのが居心地の悪い現実、つまり相手の不幸を相対化しようとしたり、あるいはまるで成り替わったかのように我が事化したりしがちである。惻隠の情は我が事化ではない。相手の立場に立って苦しみを理解し、思いやるときには、自他のあいだにはあくまで一線が引かれていなければならない。相手の気持ちなど本当には分からないからである。最後まで届かずとも相手の立場を慮り、手を差し伸べようとするのが惻隠の情というものだ。残念であったのは、同じ対立する政党でも、それを自然に示すことができた志位委員長と、福島党首の言動が正反対であったことだ。
不条理がひとたび訪れれば、その苦しみを受容して乗り越えた先にしか日常はない。安倍昭恵さんやご家族に日常は戻ってきていないし、それを我が事のように簒奪するのは暴力的なことだと思う。「民主主義に対する挑戦」というメディアのまとめ方に私が違和感を覚えるのはそうした理由だ。
内外の受け止めの違い
先ほど、右も左も安倍さんという存在に倚りかかってきたと述べた。そうせねば、もはや日本の対立軸を規定することは難しく、何に向けて戦っているのかを明確化することも困難だ――。そんな状況に日本を追いやったとして、このような状況下で安倍さん本人を責めている人すら存在する。日本を分断したと。安倍政権が日本を二分する安全保障の改革を進めたことは確かだ。少なくとも、国民が彼を見るとき、その美質は「和を尊ぶ」ことではなかったし、国会でも喧嘩を積極的に買う姿勢で眉を顰められたりもした。安保法制までは、安保左派の存在がむしろ政権の支持を増やしてきたという言い方もできる。
だが、安倍さんは第二次政権以降、7年8か月の長期政権を経て、何に倚りかからなくても存在感を発揮できるリーダーになっていた。そのことは、各国の影響力ある人々から次々と寄せられた追悼の言辞から明らかだ。「戦後レジームからの脱却」を掲げて自民党の保守派のプリンスとして総理への道を歩んだ彼は、もはやその標語を掲げる意味がなくなるまでに、国際社会における日本の存在感を回復させた。彼が海外に与えた印象は明るく前向きで粘り強い人間というものだった。おそらく、海外で安倍さんを追悼し、その足跡を振り返るにあたっては、靖国神社という語を思い出すことさえ困難だろう。そのくらい、時代は変わったのである。グローバルには、安倍政権の限界の分析はむしろ経済改革の不徹底、成長戦略を十全にやりきれなかったことへの批判に集中している。
左派が中国を刺激することに慎重になり、東アジアに残る歴史問題を道徳的アプローチで解こうとしていた傍らで、安倍政権は次々と新しい外交を生み出した。それは日中の戦略的互恵関係であり、インド太平洋構想であった。オバマ大統領を広島にいざない、自らは真珠湾と米国議会を訪れて日米歴史和解の最後のピースをはめこみ、完成させた。米国が抜けた後のTPP11を主導し、幅広い分野にわたる経済合意をまとめた。当初日米間に刺さった棘であった靖国神社参拝とて、台湾海峡をめぐる危機に比べれば国際的重要度は著しく低い。中国などが時折使うレトリックとしての懸念表明は別として、誰も本気で日本が軍国主義に戻るなどと考えてはいない。むしろ、安倍晋三というフィギュアだからこそ保守派を抑え込み、冷静な判断を下すことができるのだということを、今では海外のメディアも理解している。
米国との距離感から中国との距離感で語る時代へ
中国の台頭によって、日本のナショナリズムは米国との距離感で語る時代から、中国との距離感で語る時代へと変化した。しかも、その肝心の中国との関係を戦略的互恵関係として位置づけ、揺れ動く同盟国の意思や国際情勢を前提に管理・調整していかなければならないのだから、これほどの労力を要求される作業はない。安倍政権は終盤には習近平国家主席を国賓待遇で招待するほどにまで、関係性を成熟させていた。しかし、昨年衆院選の野党連合が市民連合と政策合意した中身には、米国の名は頻出しても、中国の名は一度も出てこなかった。小選挙区制度の持つ性格以前の問題として、かように時代錯誤的な認識をもつ政党群が躍進できるわけもない。そこへ、ロシアのウクライナ侵攻が追い打ちをかけた。
日米同盟による「巻き込まれ」を心配する有権者の気分に寄り添ってきた政党が、今度は「見捨てられ」を本気で懸念しなければならなくなった時、そこで打ち出した変化は十分に中道の有権者を納得させられるものではなかった。立憲民主党の幹部によって随所で語られた「日米同盟の維持強化が大前提」という前置きは、やはり前置きとしてしか受け取られなかったのではないか。それは、共産党が「当面自衛隊は維持する」と言明するのに等しいと。
泉健太代表は、投開票日に、立憲民主党はゼロからのスタートであったと何度も強調した。それは、この政党の持つ可能性を見捨てないでほしいというメッセージであるとともに、枝野路線から泉路線へと大きなシフトを行うことができない現在の立憲民主党の内部事情を示したものでもあると言えよう。今回の敗北を、「執行部の責任」として矮小化するのか、それとも自らの再定義を迫られるものとして解釈するのかによって、今後の立憲民主党の行方は決まっていくだろう。経済ポピュリズムの観点からはれいわ新選組が左から票を削る。改革を志向する層は維新が獲得する。立憲民主党は高齢化で減りゆく反自民・安保リベラル票を抱え込みながら社会党化する道を歩むのだろうか。さすがにそれは望まないに違いない。
立憲民主党が代表すべき層は明確である。それは最も有権者が多く固まっている中道である。そのためには、米国との距離感でナショナリズムを語るのをやめ、より時代に合わせた認識へと修正しなければならない。そうでなければ、外交安保でリアリズムに立ち、改革路線で違いを出そうとする維新にいずれ選挙区でも抜かれてしまうだろう。
自民党のゆくえ
大勝した岸田総裁の自民党に課題がないわけではない。むしろ安倍さんという大きすぎる存在を失った後の自民党が気がかりでもある。理想的には岸田総裁が二回にわたる国政選挙で信任された正統性を手に成長の実現に向けて邁進し、党内では人材の競争が高まった結果としてよきリーダーが育ってくることを期待したいが、そう簡単にはいかないだろう。
まず、ここまで7年8か月の間、グローバルな潮流と符合した方向へと日本を導いてきた安倍政治なしに、方向性がしっかりと定義されるのかどうかが気になるところだ。仮にそれができたとして、次の三年間は、脱コロナに舵を切って経済の制約を取り外すとともに、米ドルに対してもっとも価値が下がっている通貨の一つである弱い円を抱えながら物価高と景気後退に対応していかなければならない。岸田政権が無事二つの国政選挙の洗礼を乗り越えたことで憲法改正が進むと考える向きも多いが、まずもって経済を凋落させた政権と言われないために相当な努力を払うことが必要だし、次に、憲法9条改正をめぐる公明党との折衝は簡単なものでは決してない。
米国をはじめNATO諸国による対露制裁はそう簡単には終わらない。カーボンニュートラルの国際公約も生きている。したがって、エネルギー危機も当面継続すると考えるべきである。現実的なエネルギー政策を採用するとともに、グリーン投資を成長に活かすチャンスを取り逃してはならない。
最低賃金を継続的に上げつつ、時代に合った人材配置を目指していかなければいけない。コロナ禍で台無しになったウーマノミクスを、今度はもっと付加価値の高い労働に従事する女性労働者の拡大という形で挽回しなければならない。
日本政治は長い漂流の時代のとば口に立っている。安倍政権のレガシーは明確だが、未来はわれわれが作るものでしかない。そのことを思いながらこの選挙を振りかえるとき、重たい感触に囚われるのは、あながち白昼に起きた凶行が与えた精神的影響だけではない気がするのだ。(「論座」初出、2022年7月12日脱稿)