連載・寄稿
2017.11.17 News 連載・寄稿
憲法改正におけるシビリアン・コントロールの意義
最大の論点は9条
憲法改正の最大の論点は、9条にあります。なぜかと言えば、自衛隊を保有し戦力を少しずつ増強している中で、2項の「陸海空軍およびその他の戦力を持たない」という規定が現実と著しく乖離してしまっているから。自衛隊を災害出動に限定し、軍事的装備をすべてなくしてしまえば、名実ともに「戦力以下」の存在になると言えるでしょう。しかし、国民がそれを望んでいる気配はほぼありません。また、最高裁の立場からすれば、現在の自衛隊がこれからどれだけ軍備を増強したとしても、違憲であると判断するのは難しいでしょう。それは国民を守る義務を担う、政府の「統治行為」に踏み込むことになるからです。
日本は敗戦して軍を解体されました。9条2項は典型的な敗戦国条項です。大戦争をはじめた側の敗者は、第一次世界大戦以後は攻撃国家(aggressive state)とみなされるようになった。軍を解体され、再軍備もしばらく制限されるのです。
20世紀の大戦争から我々が学んだ教訓は何だったか。ドイツが第一次世界大戦に敗け、領土を減らされ、再軍備を禁止され、高額な賠償金を課された結果、大恐慌の不安と相まってナチズムが勃興しました。領土を奪われた国家は、自由になると「失地回復」に走りがちです。
また、国家主権の平等性を前提すれば、再軍備を永遠に禁ずることも不可能です。そもそも、特定の国だけが攻撃国家であるという前提がおかしいのです。現に、中国は共産党大会で、失地回復の可能性を匂わせる演説を習近平国家主席が行っています。中国が半植民地化され、あるいは侵略された過去に対する「失地回復」の範囲はどこまで及ぶのか、現代の現実の国際社会の安定を崩すものとして不安を呼び起こしています。
こうした歴史を踏まえれば、日本における9条改正の最重要ポイントは、「再軍備した日本は引き続き平和国家」であることを保証する点に尽きるでしょう。戦後72年も経てその点を強調する必要があることはいささか時代遅れの感もありますが。英エコノミスト誌が、日本の憲法改正に際して韓国や中国の反発を気にする必要はなく、世界の平和のために必要だと明言したのは注目すべき変化です。日本の憲法改正を平和への懸念材料とする発想が、欧米のメインストリームから消え去りつつあるからです。
世界が気にすべきことも、日本国内の議論がフォーカスすべきことも、憲法改正を経て再軍備路線を明文化した日本が平和国家であり続けるための具体的な条文や仕組みについてなのです。
憲法9条をめぐる自意識に欠けているもの
しかし、国内的には9条2項の削除は微妙さを含んでいます。なぜか。それは保守政権をよしとしないで来た革新勢力にとって、9条はナショナリズムの代替物であったからです。イマニュエル・カント『永遠平和のために』は、具体的な提言の一つに常備軍の廃止を含んでいます。君主国が相争う当時のヨーロッパで、カントはまず侵略戦争を可能とする手段(常備軍、戦時国債)を君主から奪い、国際法を形成し、各国が代議制民主主義(本では共和政)へ転換し、外交官やビジネスマンの相互交流を保証することが永遠平和を達成すると考えました。日本の平和思想の多くが、カントの思想を下敷きに憲法9条がその実現に向けた嚆矢たることを謳っています。その立場からは、自衛隊の認知ではなく軍縮こそが望ましく、条文に合わせて現実を変えるべき、との立場になるのでしょう。
問題は、そこに含まれる意識の歪みと行き場のなさです。革新勢力にとって憲法9条はナショナリズムの代替物であると申し上げましたが、それは大戦争を引き起こした大日本帝国の上層部や旧軍を憎み、戦後アメリカに支えられてきた一党優位体制の保守政権を憎む行為において、自意識を支える最大の拠り所であったということです。
しかし、実際には日本国憲法の起草者が占領軍であることによって、憲法の起草者の意図という、各国で憲法論議をする際に立ち戻るべき地点が、あいまいになっているわけです。日本の憲法を解釈するにあたって、ジェファソンの思想を引用するわけにもいかない。現に、9条2項に含まれる交戦権の否定の解釈をめぐっては、アメリカの国際法学者の理念を援用して、「無差別戦争観」(戦争に正も不正もないとするエメリッヒ・ヴァッテルの立場、そこでは自衛戦争かどうかは問わない)の否定と読み解いた方がよいにもかかわらず、その解釈は一部の学者が主張するのみで(篠田英朗)、最高裁によっても政府によっても採られてはいません。
憲法の起草者の意図が外国の占領軍の意図である、という歪みは、日本の左右双方の意識を蝕んできました。また、戦後一貫して自衛隊を違憲であるとしてきた社会党から連立政権の首班を出した時に、村山富市元総理が自衛隊を合憲であると認めてしまう。この瞬間、自衛隊の政治的認知は完成したけれども、憲法典から離れて、軍を持つに至ったという自意識は醸成されることのないまま、今日に至っています。
今回、安倍総理が9条3項加憲を打ち出したのは、まさに自衛隊の存在を特定の政権を超えて憲法に認知させようという意図。それは村山元総理が行った自衛隊合憲宣言の延長線上にあり、日本が常備軍の廃止へ向かうことは見通せる将来ありえないという立場を、国民的合意にしようというものです。
さて、そうでありながら2項を削除しないというのは、一見不可解な態度に見えます。もちろん、すぐに思い浮かぶのが公明党が頑強に拒んでいるという政治的理由。それに加えて、保守がそこまで革新に歩み寄り9条改正を通すことの意味を推し量ることもできます。安倍自民党は、いわゆる「戦後レジーム」の幕が保守の手によって下されるという政治的象徴性を取りに行っているのです。
象徴性とは何か。それは、3項加憲案を通したならば、自衛官を非倫理的な職業であると非難したり、自衛隊をなくせとデモをしたりすることがやりにくくなるということです。政権が狙っているその心理的効果こそ、「戦後レジーム」を現実主義の勝利と言う形で終わらせるものなのかもしれない、と私は見ていて感じるのです。
もちろん、自衛官を適切に認知し、万が一犠牲になった場合には十分な慰霊をするのは、軍を持つ国としては当たり前のことです。それを怠ってきたという良心の呵責が、革新陣営の一部にも存在している。常備軍廃止の条項を誇りにしながら、アメリカ軍に頼り、自衛隊に頼ってきたことの矛盾への忸怩たる思いです。しかし、その忸怩たる思いを衝くこの3項加憲案は、盛り上がりに欠けます。それが具体的な変化を伴わず、十分に前向きでもないから。どのように国を変えていこうかという理想を語る要素が抜け落ちているからです。そこには、厳しい平和主義を緩めた後ろめたさや、もはや特別な国だと思えないためらいがあります。長年抑圧されてきた自衛官を除けば、「どうせちょろっと書き込むだけでお茶を濁すんでしょ」というシニシズムがあるのかもしれません。
そこで、自衛隊を認知させることだけでも大きな意味があるという事実を踏まえたうえで、本稿ではその一歩先に建設的な提言をしたいと思います。
シビリアン・コントロールに道を開く
私が提案したいのは、自衛隊保有を前提とした制度を整えるための議論を9条改正によって開くことです。9条改正の意義が戦後社会に存在する誤魔化しを排することにある以上、2項を削除するのが理想的です。仮に残したとしても、自衛隊を明確に軍的なるものとして位置付けられることになります。そして、軍的なるものを持つ以上は、それをどのように統制していくかという議論がぜひとも必要なのですが、残念なことに戦前の歴史研究に見るべき蓄積があるのを除けば、日本には政軍関係研究に携わる者がごく少数しか存在しません。
軍とは何か。それは市民社会を外側の脅威から守るための番犬的位置づけです。市民社会内の犯罪に対しては警察が治安維持にあたります。古代ギリシャでは、プラトン『国家』におけるソクラテスの問答で位置付けたように、羊(国民)、羊飼い(政治家)、犬(軍)、狼(外敵)が観念されていました。最悪の羊飼いは、犬を使って羊を虐める。悪い犬とは、羊飼いに成り代わるべく羊飼いを襲い、羊を襲ってしまう犬。つまり、軍を使った暴政や、クーデター、軍人の無法者化をどのように避けるか、という観点から政軍関係の思想はスタートしたわけです。
先進国で古典的な政軍関係理論が成立したのは冷戦中です。アメリカでは1940年代後半に国家安全保障法が成立して国防総省と長官による統制の組織図が定着し、その後冷戦初期の軍統制や戦略策定をめぐる行政府と立法府の綱引きを経て、1950年代から1960年代初めにかけて出されたサミュエル・P・ハンチントンの一連の議論が政軍関係の基礎となりました。
ハンチントン理論は三つの柱からなります。一つ目は、政治と軍事の厳しい峻別です。ハンチントンは、軍のプロフェッショナリズムが確立すれば、身分制や固有の歴史などに頼らない客観的なシビリアン・コントロールにつながると主張しました。軍のプロフェッショナリズムとは、専門性を対外的な安全保障に置き、責任感をそれのみに向けて政争に絡まず、団体内の所属・結束意識が高く、組織内統制も利いているというもの。反対に、政治の側は保守主義(≒抑制主義)をとり軍事に徒に介入せず、専門家の判断を尊重し、無駄な戦争に走るべきでないという指針も示されました。
二つ目は、いったん峻別した政治が軍事を統制する際に、どのような組織形態を採用すべきかというもの。ハンチントンは、行政府内での政治と軍の関係は、均衡型であるべきと主張しました。それは政治任用の高官を含めた文官たちが日常的な軍政を決める際には軍人と対等に競争的に政策立案するのに比べ、軍令に関しては大統領に対し軍のラインでの助言を行い、それが国防長官室(OSD)にスタッフを大量に抱えた国防長官からの政治ラインでの助言と均衡して進言されるべきというものです。この理想形ではない形として、政治が軍と峻別されておらず一直線にラインが通った軍事政権のような垂直型もあれば、大統領が軍事に直接介入し、軍のトップも政治に巻き込まれるような同格型も例示されました。
三つ目の柱は、立法府と行政府の関係では、相互別個に軍に対してアクセスがあるべきという議論です。これは大統領制をとる結果でもあるのですが、あらかじめ議会の関与を保証しておこうという考え方を自然にとるのがアメリカの特徴です。極端なケースとしての弾劾を除けば、個人として選出される大統領をやめさせる権限を議会は持ちません。であるがゆえに、合衆国憲法では常備軍の設置と陣容に関して議会に大きな権限を与えました。加えて1973年に制定された戦争権限法を通じて、開戦に当たっては事前に議会に対する説明努力を課し、あるいは事後に報告して承認を受けるなどの議会の権限強化を図ったのです。
それだけではありません。大きな戦略計画の変更が行われる際には、連邦議会は監視の目を光らせます。議会は、軍人を委員会に招致して証言させることで、行政府とは別に軍事情報へのアクセス権を持っているのです。ハンチントンは主著に続く論文でこのしばしば政治化しやすいプロセスを肯定します。シビリアン・コントロールを高めるためには、実際軍人を巻き込んでしまうことも多いとはいえ、立法府による軍関与が欠かせないと結論付けたからです。
実際、ハンチントン理論はアメリカの国家安全保障法をはじめとしたシビリアン・コントロールと安全保障の確保のためのアメリカの努力を理論化する役割を担い、西側諸国はそのような政策を模倣し、踏襲してきました。ハンチントンへの学術的な反論の多くは、こうした制度的な提言に対する反論ではありませんでした。民主主義国に至っていない途上国のクーデター研究を続けてきた人たちからの、それだけでは途上国におけるクーデターを防げない、とする議論であったり、あるいは軍の民主化のために市民社会の関与を増やすべきといった反論でした。
それぞれの点について日本の現状はどうか。一つ目の柱に関しては、自衛隊の孤立とも相まってきちんと政治と軍事が分断されていると言えましょう。ただ、政治家の抑制主義に関してはまだ議論も進んでおらず、未知数です。特に、軍こそが危険な存在なのであるという言説が主流である結果として、政治家が十分に自らを振り返らない傾向も存在します(「素人がコントロールする、これが本当のシビリアン・コントロール」一川元防衛相発言等)。
二本目の柱に関しては、日本は長年文官優位システムなるものを取ってきたことにより、垂直型の統制をとっています。首相、防衛相は国会答弁しますが、そのために答弁方針をまとめる作業に関しては伝言ゲームに等しい状況が生まれています。制服との間に何人の官僚を挟むかによって「歯止め」の強さの決め手とする、という間違った考え方が浸透しているせいです。警察の場合は範囲が限定されていて文官と武官が分かれておらず、垂直型の統制を施すことで事足りるのですが、自衛隊の場合はそうもいきません。大臣が直接に制服から意見を聞くことなく、伝言ゲーム型の意思疎通に頼ることによって、国会が得られる情報も限定され、的確なものでなくなってしまうという難点もあります。会社組織ならば、次の日からすべての組織を垂直型にしましょうという決断を下すことが、いかに愚かしいことか、よくわかるはずです。
三本目の柱に関しては、ほぼ何も実現できていないに等しい。国会は自衛官にアクセス権を持ちません。慣習で、自衛官は国会に出向いて答弁しないからです。強いて言えば、法律事項としては武力攻撃事態などの際に、国会の承認が設けられている程度です。
要は、日本においては第二次世界大戦後、多くの国が民主化する中で行ってきた議論や立法、組織改正がほぼ検討されていないに等しいのです。それはひとえに、軍を持っているという事実を否定してきたから。
現在のアメリカでは、90年代以降、嫌がる軍を無理やり戦争に送り込む事象が頻発するようになって、シビリアン・コントロールの議論も二つの陣営に分かれて論争しました。一方の陣営は、軍が嫌がる戦争にも異論を排して遂行させるべく、さらに政治支配を強化しようと考えました。他方の陣営は、国益を考えれば無駄な戦争に送り込みにくくするよう、安全保障の観点からの軍の助言をもっと政治家は聞き入れるべきだと考えました。
私のいままで行ってきた研究は、どちらかといえばアメリカでは劣勢にある後者の系譜に位置付けられます。しかし、日本においてそうした先端の知見を前提に議論しようとしても空しいところがあります。日本は軍を持っていることさえ自ら認めず、隠しているのですから。戦後すぐの民主化期における各国の取り組みをまず最低限なぞっていかなければ、シビリアン・コントロールの議論の入り口にすら到達しないのです。
憲法改正を通じて実現すべきこと
9条改正を行うにあたって、実現すべきことは以下の三点です。1)シビリアン・コントロールの大原則を確立すること。2)国会によるコントロールを明記すること。3)自衛隊における均衡型のシビリアン・コントロールを確立すること。順にみていきましょう。
シビリアン・コントロールの一番わかりやすい方策は、最高指揮権を内閣総理大臣に明確に位置づけることです。現行憲法ではすでに内閣は文民で組織することと定められていますから(66条2項)、9条3項に自衛隊を明記する際に、最高指揮権を内閣総理大臣に持たせれば事足ります。しかし、シビリアン・コントロールとは何も行政府による統制だけを指すのではない。国会によるコントロールの権限を明確に位置づける必要があります。
一つの方策は、自衛権を発動する場合に開戦権を国会に位置付けることです。議院内閣制においては、国会は内閣総理大臣の不信任を決議することができます。しかし、あえて国会による開戦の承認権限を憲法に明記することによって、国運を左右しかねない戦争を民主的にコントロールすることができます。また、自衛隊の不祥事や犠牲の多い作戦命令が明らかになった場合、調査委員会を設置し、専門家を活用して調査する権限を国会に持たせることも検討すべきです。
現に、アメリカのフィリピンでの大虐殺問題を世論に明らかにしたのは上院の軍事委員会ですし、ドイツ基本法には防衛委員会の4分の1の委員による申し立てで調査を行う調査委員会の権限が明記されています。加えて、制服からの知見を政府与党に独占させず、情報を得やすくするため、国会が独自に制服と触れ合う機会も重要です。そのため、慣習上避けられている制服による国会答弁を行う慣行を設けることは有用でしょう。それが国会議員による日常的な安全保障政策に対する監視活動の能力とやる気を高めることにもつながるはずです。
自衛隊は現在、警察型の垂直組織に近い。これは、革命軍から発した国家や軍事政権では構わないのでしょうが、民主国家たるもの、やはり均衡型に移行すべきです。内閣に対して、軍政と軍令双方から的確な情報が与えられることが、結果としてシビリアン・コントロールを高めるからです。
実際の改正にあたって気を付けなければならない最後の点は、憲法事項、法律事項、慣行の峻別です。内閣総理大臣の最高指揮権や、自衛隊を軍事組織として位置付けることは憲法事項です。なぜ国土交通省の技官とは異なり自衛隊だけが特別に明記されるのかと問われれば、それは「軍」だから、としか言いようがありません。誰も、国土交通省の技官に特別な統制を施そうとは思わない。しかし、軍は軍であるがゆえにシビリアン・コントロールを受け、かつ政治による軍の濫用を避けるための規定を設けるべき対象となるのです。同じく、軍事法廷の設置は特別裁判所を禁じている現行の規定に反しますから、改正の検討が必要でしょう。国家による開戦権は、現行では法律事項となっていますが、本来は憲法として規定すべき重要な国の制度の骨格です。調査権限も憲法事項とするのが一般的でしょう。
これに対し、法律改正で済ませるべき事項は、現行の予算制度の不備を補うような、予算や装備に対する国会の特別の権能であり、自衛隊の権能の範囲の規定、軍事法廷や軍機、交戦規定に関する事項の整備です。
慣習として確立するのがふさわしい事項もあります。それは、国会において慣習上しないことになっている制服組の答弁を可能にすることであったり、国会での秘密会を通じた安保論議の活発化、および、軍人への慰霊の制度化です。
このように詳細かつきちんと腑分けした議論を通じてはじめて、軍を持っているという事の意味と真摯に向き合いつつ、シビリアン・コントロールを確立していくことができるのです。本来、こうしたシビリアン・コントロール重視、国会重視の提案はリベラルから提出されるべきです。極端な憲法の政治化から脱却し、立憲主義を守るためには、現実から目をそらさず、不断に制度の見直しを行っていくことが必要なのです。
(初出「論座」、2017年11月17日脱稿)