連載・寄稿
2020.08.04 News 連載・寄稿
民を生かす
「民を生かす」ことが目的化した社会
コロナ禍が始まって半年を振り返って思うことは、経済や社会の基盤が崩れるのがいかにたやすいか、ということであり、人々がどうやら今まで思っていたのとは異なるタイプの政府を求めているということでした。社会は消費を止め、生産を停止し、学校を止めました。まるで世界中がエアポケットのような時空間に入り込んでしまったかのようです。私自身も小学生の子供に、「もうこのまま学校が始まらなくてもいいんだけど」と言われたことがあります。
なければないなりに生きていける、というのはその通りです。友人と酒を酌み交わさなくても、春夏の洋服を買わなくても、ジムが閉まっていても、子供を遊園地に連れて行けなくてもそれなりに生きていけます。昔は学校に行かないことが当たり前だった時代もあります。しかしそこには、どうやって食べていくのかという意識が当然に存在していました。家を継ぐことができるか、受け渡された財産を維持し増やせるか、所帯を持てるか。それはどれも当たり前のことではなくて、それなりに恵まれ、それなりに努力し続けなければ実現しないことでした。
ところが、現在の先進国ではコロナ対策の政策目標自体が「民を生かすこと」に向けられている。そのため、コロナに感染せずに、家で閉じこもってさえいれば、自分の人間としての活動がまっとうされたかのような実感を持つことができるのです。いうなれば、家で自粛生活を送れるくらいには社会的・経済的に恵まれた状況にある人口のおよそ3分の2は、そうしているだけで社会における自分の役割を相応に果たしているという感覚です。そこと残りの3分の1のあいだには、のちに述べるように大きな格差が存在するのですが。
メディアは日々、感染者数の増減や新型コロナウイルスの脅威ばかりを報じており、それが国民の一大関心事になってしまった。通常の社会では、人々の欲望や関心は多様なものに分散しています。しかし、コロナ禍における人びとの欲望は分散しておらず、感染拡大を食い止めること、あるいは感染症の性質や見通しについて侃々諤々の議論を繰り広げることに向かってしまっている。そのような状況下において、コロナ関連以外のモノや情報は欲望されにくいのです。
米国では4-6月期のGDPが大きくマイナスになったと報道されています。日本でも年率換算でマイナス20%台成長と予測されています。さすがに7割に縮小した経済で、今いる人数の国民にこれまでと同じような豊かさと安全を届けることはできません。したがって、人々を「生かす」ことのみを目的とした社会は持続可能性が乏しいのですが、それが統治の観点からはうまくいってしまったことに、政治学者はもっと目を向けるべきではないでしょうか。
生産性と健康
どういうことか。ここで注目したいのは、これまで豊かさを求めて生産性向上を働きかけてきた政府のメッセージよりも、コロナに対して事実上戦時体制に入ると告げた政府のメッセージの方が、人びとに受けが良かったという点です。生産性は人を管理するひとつのやり方ではありますが、経済活動の多様性や、職業選択の自由がある限りにおいては、人事評価システムのように個々の職場でしか強制されません。また、人々の生産性があがれば定義上は労働時間が減って余暇が増え、収入が増えるわけですから、集団全体だけでなくてその人にとっての利点も大きい。
安倍政権の「女性活躍」や「女性の活用」というスローガンに対しては、生き方への介入であるとか、女性を経済成長のための労働力としてのみ見ているという批判が上がったことがあります。しかし、その時も政府は誘導を行っただけで、具体的に人びとの行動を縛ったわけではありませんでした。
それに対し、コロナ禍における行動制限は、もっと直接的に人びとの行動を縛るものです。例えば、夜19時以降はお酒を出してはならず、20時以降までご飯を食べていたりしてはいけない、ということ。海にサーフィンに行ったり、公園を散歩して桜を見にいってはいけない、ということ。病院で家族に面会できないということ。
生産性向上は人々の自由意志を前提にしつつ効率的に管理し、その群れ全体を持続可能に繁栄させるためのものですが、戦時体制の方はもっと極端で、人々の自由を制限し、ひとつの目的に向かって邁進させるものです(ここでは感染の抑え込み)。人々を「活かす」ことに向かう管理が忌避されたのに対して、「生かす」ことに向かう管理が歓迎されたことは示唆的です。
健康医療の分野は、もともと群れの管理と親和的でした。例えば私たちが国や地域の先進度の重要な基準とする乳幼児死亡率の低さや平均寿命の長さは、医療従事者や助産師、行政などによる絶え間ない介入によって達成したものです。家族計画によって女性の負担をやわらげ、赤ちゃんに多数の予防接種を施し、定期的に検診を受けさせて親を指導することで乳幼児死亡率を下げてきた。ですから、感染症の流行にあたって医療界が軒並み人々の「管理」を要請したのは、彼らのプロフェッショナリズムからすれば当たり前のことです。
ところが、健康上の要請が常に前面に出るとはいえません。極度に甘く、カロリーの高いタピオカミルクティーが流行ることで肥満のリスクがあっても、日本医師会は行動変容を迫る記者会見を開いたりはしません。脂質と塩分量の多いラーメンもテレビで頻繁に特集されますが、誰もストップをかけようとはしません。禁煙は近年の社会的な流れですが、煙草自体は禁じられてはいない。望まない妊娠がこれだけ多いのに、ピルの服用よりも痛みやリスクを伴う中絶手術を受ける方が日本社会では一般的とされています。何より、同じ感染症で、新型コロナウイルスより多くの、年間3000人弱が死亡する子宮頸がんのワクチンは度重なる医療関係者による呼びかけにもかかわらず義務化されていません。
つまり、人間は選択的に「管理」を選ぶのであって、そこにはリスクの明確な線引きがあるわけでもなく、むしろ人間の対応には偶然性が支配する領域が大きいということです。ではなぜ新型コロナウイルスに対してのみ、これほど大きなリアクションが起きたのでしょうか。それを理解するため、まずは「活かす」ことがそれほど歓迎されず、「生かす」ことが歓迎された理由を考えてみましょう。
みんな同じ
「活かす」ことと、「生かす」ことの違いは、二言で説明できます。平等であると認識されるかどうか、生存をかけた問題だと認識されるかどうか、です。
この感染症の受け止められ方は、「生存」と「平等」という人間にとって根本的な二つの動機に作用しています。人間も国家もせんじ詰めれば最大の目的は「生存」です。弱肉強食は自然界の習わしですが、生存は必ずしも攻撃的であることを必要としません。引きこもりも、宥和も、全面戦争への突入も、生存目的を果たす一手段に他なりません。
戦時体制においては、国家の生存が国民ひとりひとりの生存と必ずしも一致しない場面が出てきますが、生存が平等に脅かされているという認識が存在する限りは、国民は国家の生存とわが身の生存を同一視しがちです。人類学の研究において、集団内の資源が希少になったとき、近隣集団と争いをして、負け戦で戦死者をたくさん出してでも資源への圧迫(資源対人口比)を減らそうとする行動が報告されていますが、群れの危機として何らかの事態が認識されたときの人間の行動は、必ずしもその個人にとって合理的とは限らないということです。ナショナリズムや宗教や栄誉といった人間を不合理な行動に駆り立てる要素もありますが、個人や国家にとって「生存」の問題として認識されるか否かという分析はすべての根底に存在します。
戦争と同様、人間ひとりひとりに対する感染症の健康不安が集団全体の生存に対する脅威として認識される過程で、「平等性」は大きな意味を持ちます。戦争でも、感染症でも、そこに平等という(幻想であったとしても)イメージがあって初めて集団的な目標が成り立つ。戦争の場合、遠く離れた戦地でごく少数の人が従軍して戦死するのであれば集団的な運命として認知されにくく、しだいに関心が低下してしまいます(例:アフガニスタン戦争)。ウイルスも、特定の人ばかりを襲うのであれば、集団的な運命たり得ません。この点、新型コロナウイルスが年代によって大きく健康リスクが異なるにもかかわらず、みんなの問題、みんなのリスクであるということが強調されているのは、必ずしも防疫体制上の理由ばかりではありません。感染症に対する人びとの関心を呼び起こし続けるために、全世代的なリスク(若年層でも亡くなった人がいる、後遺症がある、など)を強調しなければならないという必要性を意識・無意識を問わず、メディアも医療関係者も感じているからです。
では「活かす」方は平等ではないのでしょうか。人びとが「活かされ」る場合には能力差に従って決定的な運命の違いが生じます。反対に、「生かされ」ているというのは単に亡くなっていないという意味においては平等です。生産性の向上が、どこまで行っても集団的な熱意にあふれた目標たり得ないのは、一つにそれが生存をかけた問題として認識されず、もう一つにはその結果得られるものが平等ではないからです。もしも技術が進歩して人間が生産性を担わなくてよくなれば、実は「生かされ」ることのみに集中し、粛々と管理され続ける人間の方が統治の対象には適している、ということを今回のコロナ危機は示しています。もしも、人間集団において「生かされる」ことが常に意識されている特異な社会状況さえ作り出せば、完全なる服従が完成してしまうということです。そこで、次は統治が全体主義化する場合について考えてみましょう。
全体主義の特徴
人びとが群れの生存に対する平等な脅威を信じるようになると、全体主義的な要素は高まります。全体主義と非全体主義の一つの違いは、大衆の日常生活がたえまなく政治化しているかどうか。とりわけ、一つのドグマやイデオロギーに照らして政治化している場合は全体主義的要素が強くなります。ソ連の芸術家が「革命的」とみなされるかどうかで大きく運命が左右されたように、本来政治とはかかわりを持たなくてもよいはずの分野が一つのイデオロギーによって判断され、評価され、介入されてしまうのが全体主義社会の特徴です。仮に全体主義イデオロギーをもつ国家でなくとも、戦時下、とりわけ総力戦においては全体主義的な要素が蔓延します。そして、コロナ禍に際しても、全体主義的な要素はそこかしこに観察されました。その典型例が自粛警察による介入であり、感染者を出した企業などに対する誹謗中傷や脅迫であり、ホストクラブに対する敵視の世論です。
全体主義的なるものを特徴づけるもう一つの違いは、生や政治の目的が、積極的に定義されているかどうかでしょう。それが共産主義ならば「革命的精神」が、ナチスイデオロギーならば「ドイツ国民の精神」が宿るわけです。非全体主義的な社会では、人々の生き方も目的も多様であり、国家的運命に必ずしも規定されない個人のストーリーが中心となるので、生には大した目的が宿らなくてもいいし、政治がくだらなくてもいい。コロナ禍においては、生や政治の目的が、感染症を乗り越えて「生かされる」ことに向けられました。
日本はというと、国民の同質性が高い一方で、社会が多元的な国なので、安保を除けば政治自体がイデオロギー化しにくいところがあります。だから余計に、与野党が真逆の政策を推進しようとする米国などより、「生きろ」という集団の共通目標が絶対視されやすく、ゼロリスクが求められやすい素地があります。その強烈な生存イデオロギーが乗り越えられるとすれば、人治にも近い、すぐれた人格による受容的かつ裁定者的リーダーシップを必要とします。現時点での日本はそのようなリーダーシップが求められるほどの状況にはいたっていません。日本は敗戦してもいないし、経済に与える影響はこれからようやく明らかになるところだからです。
しかし、いずれにせよこうした状況が永続するとは思われません。全体主義的要素が高まる理由も、「活かされる」よりも「生かされる」政治統制が好まれる理由も、元をたどれば生存本能と、平等を信じる気持ちにたどり着くからです。このような社会の過剰反応は、戦争が終わり、あるいは感染症が終わればたいてい雲散霧消します。社会が全体主義的になるためには相当な条件が揃うことが必要であり、おそらく日本においても新型コロナウイルス対応の教訓を踏まえた次なる感染症に向けた取り組みさえ、遅々としか進まないだろうと思われます。人間とはそういうものです。私が今年の年頭に論座で述べた「変わらない日本」というイメージを半年たっても撤回する気になれないのは、そういう理由からです。
しかし、コロナ禍が過ぎれば物事が元通りになるというのは大きな誤りです。それは、初めの方に書いたように、リモートワークや自粛生活ができることすら一部の恵まれた人の特権であり、コロナ経済危機においては圧倒的な痛みの差が生じるからです。
真に平等が損なわれるということ
緊急事態宣言や行動自粛の期間中、拡充された雇用調整助成金の効果もあり、少なくない割合の労働者は、仕事量が減っただけでたいして給料は減っていません。むしろ停滞した生活に慣れてしまったという人も多かったでしょう。とあるアンケート調査では、出勤がふたたびはじまることにたいして鬱陶しさを覚えると打ち明けた人もいました。見ようによっては少し休もう、立ち止まってこれからの生き方を考えようというプラスの方向にも捉えることができます。リモートワークができる層にとって出勤時間の節約が合理的だというのもその通りでしょうし、個人レベルの体験に落とし込めば、子供と過ごす時間が増えた人も少なくないはずです。
しかし、このように社会や経済の活動が停滞するなか、なかで、確実に失われたものがあります。それが女性と若者の雇用です。正規雇用の社員よりも非正規雇用の社員が、パート・アルバイトとして働いている人が、先に職を失いました。それらの大半は女性と学生です。女性活躍の目標を掲げた安倍政権の成果は毀損し、女性の総所得が減少して、男女平等に壮大に逆行する事態が生じています。今年新卒の若者は突如として就職氷河期に直面することになりました。すでに、多数の内定取り消しが報告されています。バブル崩壊後に社会の不安定さを一身に背負わされたロスジェネの若者たちが、再び作り出されようとしているのです。
同時に、多くの中小企業経営者や自営業の人びとは、存立をかけた危機の淵に立たされています。5月末の緊急事態宣言解除後も状況は劇的に改善されてはいません。東京都内では、飲食店の営業時間制限が深夜0時にまで延びたのは6月後半であり、いまふたたび都知事によって営業時間短縮の制限が要請されています。ビジネスの実感としても、4~6月には景気DIに歴史上見たことのないような数字が並んでおり、急速に悪化した景気がいったん底を打っても、そこからの回復が緩やかにしか進まないことが分かりました。マスコミのような大企業で働く正社員からは見えにくいところに、このような痛みの実態が存在するのです。
「生かされている」ことだけに着目すれば、同質的な社会で、肥満度も低い日本では平等に近い状況が存在するが、その境遇に目を向ければ格段の差があるということです。コロナ経済危機の負担は社会において不均衡に存在しています。リモートワークが可能な比較的恵まれた層においてさえ、自粛生活の負担は主に女性や子供にのしかかっていたことが分かってきています。妻の4人に1人が夫に在宅で働いてほしくないと答えているといいます。各種調査でみられるように、相変わらず8割の家事育児負担が女性にのしかかっている以上は、当然でしょう。公園遊具や図書館などの公共の施設に関しても、利用がまず制限されたのは健康リスクの高い大人ではなく、子どもでした。
アフター・コロナ時代の施策は、この半年の間に毀損され、そして今年後半にかけてさらに毀損するであろう「平等」を埋めるところから、マイナス地点からのスタートを切らなければなりません。ひとびとがコロナを「生存」をかけた安全保障上の問題だと認識していた内は、過剰反応は致し方のないことなのかもしれません。しかし、「平等」な「生存」をかけた問題に取り組んでいるという認識のもとに、真の平等を掘り崩すことだけは避けなければならないのです。
2020年は期せずしてコロナ時代となりました。しかし、そこで立ち現れてきた問題は、すでに社会に存在していた問題群に他なりません。私たちは、いったい何のために共同体、社会を形成しているのかということを今一度考えてみるべきでしょう。
(初出「論座」、2020年8月4日脱稿)