連載・寄稿

2021.07.18 News 連載・寄稿

2021年オリパラ

オリンピック中の緊急事態宣言

首都圏は無観客で開催されることが決まったオリンピック・パラリンピック。予定されていた都内小学校等の児童による観戦も全員分のチケット確保が難しくなったという理由で中止されることになった。ぎりぎりまで有観客開催を探りながら、最後に折れる形は菅政権のコロナ対策に共通している姿勢ともいえる。

だが、今回は少し様子が違った。いつもならば感染者数が病床をひっ迫させるのではないかと思われる手前で宣言を出し、医療提供体制を立て直すというのが政権の傾向だったはずだ。ところが、ゴールデンウィーク潰しの東京に対する「先制」緊急事態宣言(三回目)のときにはアルファ変異株への恐れで態度を突如変更し、そしてワクチン効果で重症者が抑え込めているはずの今回は、デルタ変異株への危機感が前面に出た形での宣言となった。

だが、アルファ株が東京に入ってきた結果としてどうだったのか、ワクチン効果を打ち消すほどの医療的危機なのかについて、いずれも検証されてはいない。いわゆる専門家のシミュレーションというのは、いくつもの前提を積み重ねたうえで成り立っており、その前提が少し揺らいだだけで、結論には巨大な振れ幅が生まれる。しかし、国民の側は人流についても感染者数予測についても、「誤差がある」という概念になじみがない。仮に、昨年の第一波の時に、「今後1年半で1万4千人から42万人のあいだのコロナ死者が出るだろう」とコミュニケーションをしたら、一体なんだそれは、という反応が返ってくるに決まっている。切れ目のないほぼ無限のシナリオがある未来に対するリスクコミュニケーションは難しい。

だが、一つだけ明確に伝わっているメッセージがある。いまある医療提供体制ではこの夏さえも越せないらしいということだ。西村大臣や分科会のメンバーの発言によれば、重症患者用の病床が仮にひっ迫せずとも、中等症や軽症用の病床がひっ迫することが予想されるらしい。だとすれば、国民がこれによって受け取るメッセージは「ワクチン効果は高齢者などの重症化を防ぐのみで、日本においてはワクチンを打っても社会経済活動を正常化できるわけではない」というメッセージになり、ほとんどが無症状ないし軽症で済む若者には、副反応が強いワクチンを打つインセンティブが十分に感じられないことになってしまう。

その結果として、ワクチンの接種比率は頭打ちとなり、正常化がますます遠のいてしまうことが予想される。まずは、感染予測や医療崩壊シミュレーションの前提をすべて明らかにしたうえで、物事を根本から見直すようにしてもらわねばならない。

さて、人々の暮らしや命がかかっている宣言が、こうも軽々しく出されるようになった背景には、やはりオリンピックがある。政治サイドからすれば、オリンピックが期日のある予定として控えていたがために、「正常化」がかえって言い出しにくくなったという効果である。

オリンピックをめぐる政治

オリンピックをめぐる政治は、二層構造になっている。一番上の層はIOCや諸外国、ワクチンメーカーなど海外のアクターと日本のアクターとの間で展開される政治、下の層が政府と分科会や東京都、野党の間で展開される国内政治であり、それぞれにメディアの影響が介在する。二層の政治はどちらかといえば普通の国際政治であり、国内政治だ。オリンピックがナショナリズムの発露や国威発揚の機会としてしばしば利用され、また多額の利得やステークホルダーが絡む大規模なイベントであるがゆえに、政治化されるということだ。

国民は政治の主人公であるとされながらも、この二層の政治のどちらにも本格的には参加しておらず、世論調査や街頭インタビューなどで垣間見られる「気分」をメディアが代表しているに過ぎない。そのかわり、政治の外側には広大なインターネット言論空間が広がっており、二層の政治に各自が様々なやり方で意見を述べ、少数のアクティビストが境界をまたいでリアルに行動している。国民の大半は受け身である。

アクティビストの主張で、もっともシンプルに説得力を持つのが「腐敗」言説である。IOCから日本政府まですべてが腐敗しており、権力者や資本の都合の良いように都市が開発されてしまうのだという、いかにも分かりやすい言説だ。彼らは国境を越えてオリンピックを阻止するために連帯して行動しているため、それぞれの分野でそれぞれのアジェンダを持ってはいるが、「No Olympics!」で連帯が可能である。

安倍晋三前首相がいみじくも「反日的な人」と名指したのは、こうした運動のことを、実際にはもっと大きな広がりを持つものとして拡大解釈しているのではないかと思う。彼らの反権力的志向は確かだから、日本に置きなおせば「左翼」という単純な塊として安倍さんなどには理解されるのだろう。けれども、オリンピック廃止論は、「反日と愛国」だけでは語れないし、オリンピックに対して盛り上がれない、不信感を抱く層の大半は非政治的であり非イデオロギー的な人々だ。

反対する側の論理

サスキア・サッセン『グローバル・シティ』という書がある。社会学者であり、革命に共感した両親の娘として生まれ育った彼女は、グローバル化と資本主義に対するひとつの象徴的な批判を立ち上げた。突き詰めれば、大都市化はそこで働く大量の低所得層の人を必要とする、というシンプルな批判である。それはその通りで、大都市化と富の集積は不即不離の関係にあり、富が集積するということはすなわち格差が生まれるということである。

この批判はオリンピック批判に通ずるところが大きく、IOCの腐敗や、開催都市の貧困地域の再開発による追い出し、土地の囲い込みなどが問題視される。そうした運動における権力批判はかなり先鋭で、リベラル政党のリーダーすら批判対象となる(例えば日本やアメリカのリベラルの間ではかつて人気が非常に高かったクオモNY知事などがその象徴だ)。最近では元五輪選手であるジュールズ・ボイコフによる『オリンピック 反対する側の論理』がそうした立場を象徴する。

だが、アメリカではNYTのようなリベラル紙や、日本で言えば朝日新聞のような主要リベラル紙がそうした街頭活動をストレートニュースとして報じることはあっても、彼らの言説と同化することはほぼ考えられない。むしろ、今回東京オリンピック・パラリンピックを止めろという運動が沸き起こったのは、サイレント・マジョリティのコロナ不安が第二層の政治によってすくいあげられたからに他ならない。いわば、政局的な政治と連動するメディアの展開するムーブメントが、偶然五輪に向けられたということだ。

その典型が、朝日新聞の社説であった。週刊文春にその内情が晒されているが、そこから明らかであるように、社説はスポーツ報道をする社会部などの現場の報道とは離れたセクションとして、相互に不干渉であるのが当たり前だ。だから、社を挙げて反対、などといったことは存在しないのだが、外部の目は違う。朝日新聞という一つのアクターが存在するとみる。だからこそ、外部有識者はコラムで「五輪開催の是非、社説は立場示せ」ということを提言したのだろう。しかし、論説委員室は外部からのそうした目に呼応するように「社を背負って」しまった。当然、朝日新聞は社として五輪開催に反対しているという見え方になり、安倍氏の世界観に沿った受け止め方を増幅した。

民主主義なのだから様々な意見があることが健全だ。しかし、そうした社説にもかかわらず、結果的に開催は阻止されなかった。五輪をめぐるメディア報道が単に人びとの不安を吸い上げて代弁するだけでなく、政局化して二層構造の政治と深く連動してしまったことが、かえって五輪開催を愛国側の勝利と位置付ける立場を強化したともいえるだろう。

一見、感染対策をめぐる慎重派と両立派の争いであるように見えて、またしても五輪問題は左右対立の単純な争点に吸い込まれてしまったのである。

オリンピックにそんな力はあるのか

東京にオリパラを誘致した人々の努力はよく理解しているつもりだ。そして、招致の頃からオリンピックやその開催方法に反対した人々や、あるいはここへきて中止を訴えた心理も理解できないわけではない。だが、その推進派と反対派両者に共通するのは五輪に世の中の流れを変える能力を読み込み過ぎていることだ。

よくメディアや言論空間で接する命題に、「オリンピック後の日本はどう生きていくのか」というものがあった。そのたびに、オリンピックの前だろうが後だろうが何が違うのだ、という感想しか持てなかった。東日本大震災ですら社会は変わる変わると言われて、とくに何も変わらなかった。変わる、というのがいったいどういう意味でどのような方向へ向けて使われているのかも、私にはよく理解できない部分があった。

この国は低成長をはじめとする先進国病に深く浸食されて長い。事業者などの民間企業の目線から行けば、オリンピックの前と後で異なるのは単にインバウンド需要であり、英語でのビジネスや観光の方式がもう少しは定着するだろうという期待や身構えであり、あるいはここのところ世界各国の大都市の不動産価格が値上がりし続けているトレンドに東京も加わるのかもしれないという予想、といったところである。

オリンピックがあってもなくても人工知能の導入は進むし、オリンピックがあってもなくても持続可能な発展を目指して環境志向の強いビジネスが生まれるだろう。オリンピックがあってもなくても日本政治における左右対立の軸は憲法と日米同盟をめぐる立場だし、そうである限り政権交代が起きる見込みは少ない。

国威をかけつつも平和と国際親善を目的とした世界的なスポーツの祭典は、外交の一手段であり、政治の一手段であり、いいビジネスである。それ以上でも以下でもないのである。

多数の、ふだんノンポリだが五輪反対の意見をもつ人々は、開催や中止をめぐって国の権威が持ち上げられたり、引き下げられたりすること自体にそもそも飽き飽きしているのではないか。彼らはコロナの流行に対する不安を抱え、日常生活を取り戻したい。そして、「不公平」な取り扱いに対して反感を持っているに過ぎない。

もっとも最近では無観客開催に対するサッカー代表選手の落胆のコメントが話題となっているが、選手の家族ですら観戦できない不合理に対しては、観客を入れることに反対する人もおそらく、自然に寄り添えるのである。

東京五輪はまもなく開催される。メディアはそれ一色に染まるだろうし、その前と後とで明確な変化はないだろうけれども、楽しみたい人は楽しめばいい。社会は五輪よりももっと広大であり、多様で、五輪は私たちの娯楽や希望のほんの一部に過ぎない。さまざまな活動を止められ制限された私たちの自由が取り戻されることこそが重要なのであり、「政治」をやりたい人は五輪ではなく、その本質を取り上げるべきだ、と真に思う。

(初出「論座」、2021年7月18日脱稿)