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2020.12.24

有事への対応ができない日本というシステムー日本における「医療崩壊」の危機とは

有事への対応ができない日本というシステムーー日本における「医療崩壊」の危機とは
本日は、コロナを通じて浮かび上がった日本の課題について考えたいと思います。コロナが感染症としての脅威レベルを超えてここまで大問題となっている背景には、現代社会が抱える脆弱性があります。もちろん、脆弱であった仕組みも一定の時間とコストをかければ、危機対応はできるはず。それが、有事への対応力です。日本が図らずも露呈してしまったのは、有事への対応力が決定的に弱いという現実でした。

日本の医療体制の歪み
ある程度予想されたことではありますが、冬の到来と相まって足下ではコロナの第3波とも言われる現象が生じています。先日は、医師会をはじめとする開業医の代表の方々の会見があり、「医療非常事態宣言」や、日本の医療体制は「風前の灯」であるとの言説も飛び交っています。ただ、客観的な数字を見れば、コロナに関連する国内の死者は3,000人に到達したところです。米国は300,000人ですから、絶対数でいくと100倍の開きがあります。もちろん、人口換算の数値を見る必要がありますが、感染者数や死者数は欧米と比較すると1/10、1/100の水準にあるわけです。そんな状態でどうして、医療崩壊が叫ばれるのか、日本の医療体制はそこまで脆弱なのでしょうか?

結論から言うとけっしてそうではありません。日本は、人口対比で先進各国と比較すると、病床数は各国より多く、ICU数は各国より少ないという傾向があります。よって、第2波、第3波に対応する強靭な医療体制を築くためには、いざという時には通常の病棟を準ICU的なコロナ病棟に変換し得る能力を準備する必要があったわけです。同時に、日本の医療体制は、公的な医療保険制度と民間の病院を組み合わせた仕組みによって成り立っています。つまり、いざという時のコロナ病棟の緊急拡充は民間の医療提供者によっても担われる必要があったわけです。この平時から準戦時への転換を強制力のある命令によって図るのか、平時からの取り決めによって図るのか。その準備が必要だったのです。

残念ながら、結果から言うと、この種の十分な準備は行われませんでした。現在、露呈している危機はその結果です。その分析なしに、危機だけを煽り、結果として国民経済に強い足かせをはめようとするのは無責任であり、原因と結果の関係を軽視した非科学的な態度と言わざるを得ないでしょう。現在、コロナに対する対応は公立病院と一部の志を持つ民間病院が担っています。日本の医療体制、病床数から言うとごく一部の医療関係者に負担が集中しているのです。負担が集中している先の方々のご苦労と犠牲については頭が下がる思いです。

コロナ患者の受け入れ態勢が広がっていかない背景の一つには、体制の拡充がそれほど容易でないからというのもあるでしょう。設備についても、人員についても、急速に拡大させるのは容易なことではありません。ただ、これはやらなければならなかった。4月に緊急事態宣言が発出された時、日本国民は従順にその指示に従いました。強烈な私権制限と経済へのダメージがあったにも関わらず、日本というシステムを維持するために必要と思われたからです。それは、「準戦時」的な覚悟で行われました。日本の医療体制は、国民の多大なる犠牲の下で半年の時間的猶予を手に入れたのです。今後、この半年がいかに使われたかについては検証を進めるべきでしょう。

そして、その検証の中心にあるべきは、多くの病院がコロナによる風評被害を嫌気して、コロナ患者の受け入れを拒んでいるという事実でしょう。週刊文春の報道によって局地的に医療崩壊を起こしている旭川の状況がレポートされています。ぜひ、多くの方々に見てほしいと思います。民間の病院も私企業ですから、経営の自由はあります。問題の本質は、有事が想定されていたにも関わらず、厚労省や地方自治体がこれらの民間の医療提供体制を充実させるための指揮命令権を持たないということではないでしょうか。

宿泊業や飲食業にとって、営業時間の短縮は死活的に重要な規制です。密を回避するために座席を間引かなければならないことも経営に直結します。民間経済には、強烈な規制を求めておきながら、医療界は十分に踏み込んだ準備を行っていたのか疑問が残ります。そのツケが「経済全体を止めろ」という乱暴な治療方針となって、国民全体に跳ね返ってきているのです。

有事に対応できない日本
もちろん、日本の医療界に悪意があるとは思いません。それは、平時の理屈に基づけば合理的な判断だからです。問題は、日本という仕組みが有事に対応できないような作りになってしまっていることにあります。有事には、行政が民間の病院に対しても困難なコロナ治療を行うように命令する必要があります。

実は、新型インフルエンザ特措法の中に、その種の仕組みは存在します。今回の、緊急事態宣言や、経済を止めるための強権的な政策は、その拡大解釈の延長線上で行われたわけですから。ただ、経済活動への介入が日本的な「自粛要請」にとどまったのも、この私権制限に対して慎重であったからです。

有事への対応というと、マッチョな政策を追行し、強権を発動すれば良いというイメージが左右双方にありますが、そうではありません。少し、抽象度を上げて有事への対応力ということについて考えたいと思います。日本の有事対応をめぐる議論にも、もう少し細かい実務的な視点が必要と思います。

第一は、脅威の度合いを見極める徹底した情報収集、分析能力が必要という視点です。コロナの例でいけば、震源地であった中国の状況をいち早く把握し、感染症としての脅威レベルを見極めること。エボラ出血熱のような封じ込め以外の選択肢を許容できないようなウイルスなのか、インフルエンザのような一定の社会活動との両立を模索すべきものであるのか、その見極めが必要だからです。各国の対策の中でも、何が効いていて何が効いていないのか、絶えず情報をアップデートする必要があります。

第二は、シナリオで思考することです。どれだけ情報収集を徹底しても、変化に対して柔軟に対応できなければ意味のある対策はたてられません。絶えず、最悪の事態を想定しながら、それでも目の前の現実に柔軟に対応するために様々なシナリオを想定しておく必要があります。思考にストレスをかけ続けるということでしょう。「既に決まったこと」とか、「そんなこと怖くて考えられない」という発想からいかに自由になるかということです。

第三は、なるべく多様な情報を定量化してテーブルに乗せるということ。コロナ対策でいくと、感染症の広がりによってうけるダメージと、経済の崩壊によってうけるダメージを双方ともテーブルに乗せることです。日本は縦割り社会なので、とにかくこれが苦手です。医療界や厚労省は医療だけ、経団連や経産省は経済だけを見がちです。それは、組織の成り立ちとしてしょうがない。けれど、最終的な意思決定の主体は双方をテーブルに乗せて、比較考量する姿勢が絶対に必要です。

第四は、平時から戦時への移行とその決定を誰がどんな権限に基づいて行うかのガバナンスをはっきりさせておくことです。危機には大胆に対応しながらも、通常は各人の自由を最大限尊重するのが、平時と戦時を明確に分ける発想です。その転換は、明確なルールと責任に基づいて行われるべきです。今般のコロナ禍で分かったことは、この種の判断を行うべき主体がその能力をまったく有していないという実態だったと思っています。私自身は、現状の都道府県知事の能力や体制を前提としたときに、彼らにより多くの権限を与えることについて完全に懐疑的になってしまいました。

第五は、徹底した検証を可能とする体制を取ることです。水に流してしまう文化、責任追及をせずに和する文化には、良い部分も悪い部分もあります。ただし、有事に備える上では絶対的に必要な機能です。今回のコロナ禍でも、無責任な言説が飛び交いました。未知の感染症に対するものとしてやむを得なかったものもあったと思います。そうだとしても検証は必要です。十万人単位の死者の予想、勝負の3週間を繰り返していること、各国対比で実に脆い医療体制、それぞれに検証が必要でしょう。民間でも検証の作業が始まっており、その努力は重要ですが、平時と有事の間をつかさどることは政府にしかできないわけで、政府のレベルでしっかりとした検証が行われるべきです。

重要な視点は、有事に対応する能力は日本の国力そのものであるという発想です。有事に対応できない国も、組織も、個人も、実に脆いからです。我々は、有事に対応する仕組みを作り上げながら、有事に対応できるリーダーを選ばなければいけない。当たり前であるけれども、正面から見据えてこなかったことが白日の下に晒された一年であったように思います。

*公式メールマガジン 三浦瑠麗の「自分で考えるための政治の話」2020年12月23日配信号より編集して転載。